神田明神
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「神田神社」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「神田神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

京都にある祠については「京都神田明神」をご覧ください。

神田神社

拝殿

所在地東京都千代田区外神田2丁目16番2号[1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分7.3秒 東経139度46分4.4秒 / 北緯35.702028度 東経139.767889度 / 35.702028; 139.767889 (神田明神)座標: 北緯35度42分7.3秒 東経139度46分4.4秒 / 北緯35.702028度 東経139.767889度 / 35.702028; 139.767889 (神田明神)
主祭神大己貴命
少彦名命
平将門[1]
社格等旧准勅祭社、旧府社別表神社
創建伝天平2年(730年[1]
本殿の様式入母屋造本瓦型銅板葺
札所等東京十社
例祭5月15日頃(神田祭
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}神田神社東京都区部の地図を表示神田神社日本の地図を表示
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隨神門歌川広重名所江戸百景』のうち「神田明神曙之景」。神田神社は本郷台地の東南端の高台にあり、東側がで、眺望で知られていた[2]。この図は境内から東の空の曙を描いたもの。3代広重『東京名所図会』「神田神社境内」

神田明神(かんだみょうじん)は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社。正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)[3]

神田祭を行う神社として知られる。神田日本橋日本橋川以北)、秋葉原大手町丸の内、旧神田市場築地魚市場など108か町会の総氏神である。旧社格府社明治3年(1870年)まで准勅祭社)。現在は神社本庁別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。
祭神

3柱を祭神として祀る[4]

一ノ宮 - 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。縁結びの神様。天平2年(730年)鎮座[5]

二ノ宮 - 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。商売繁昌の神様。明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀[6]

三ノ宮 - 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の摂社である将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰[5][7]

歴史.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに北条五代記の原文「神?田神?事能の事付江?の城はじまる事」があります。

社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる[8]。神田はもと伊勢神宮御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。

承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首がから持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

江戸時代江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座した[9]江戸鎮守として尊崇された。神田祭江戸三大祭りの一つである。山車将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した。「神田囃子」は東京都の無形民俗文化財に指定されている。江戸時代初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782年)には権現造の社殿が造営されたが、1923年大正12年)の関東大震災で焼失した。その後、1934年に当時では珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、1945年昭和20年)の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。

江戸時代には「神田明神」と名乗り、周辺の町名にも神田明神を冠したものが多くあった。明治に入って神社が国家の管理下に入ると、明治元年(1868年)に准勅祭社に指定された。その後、府社に列せられ、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)、明治天皇行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、太平洋戦争後の1984年昭和59年)になって本社祭神に復帰した。


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