神田川
JR御茶ノ水駅脇を流れる神田川(仙台堀)と聖橋
(東京都千代田区/文京区)
水系一級水系 荒川
種別一級河川
延長24.6 km
流域面積105.0 km²
水源井の頭池(三鷹市)
河口・合流先隅田川
流域東京都
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東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、現在は、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流し、荒川水系の支流である。元の河口は日比谷入江であり、荒川には合流していなかった。
流路延長24.6km、流域面積105.0km2と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
フォークグループかぐや姫の楽曲『神田川』の題材になっていることでも有名である。 かつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となった。 江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山[注釈 1]から下流は神田川と呼ばれるようになった。明治になり神田上水が廃止されてからは上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって全て神田川の呼称で統一された[1]。 神田川の中流域の中でも今日の都電荒川線早稲田停留場付近(関口の石堰があった)から飯田橋駅付近(日本橋川と分かれる)まで約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていた。この部分も1970年8月に「神田川」に名称が統一されることとなったため、これに由来する地名の多くは1966年までにその名を消したが、江戸川橋駅及びその由来である橋梁、文京区立江戸川公園などにその名をとどめている。なお、明治末頃まで、石切橋から隆慶橋間の両岸は、東京市内屈指の桜の名所と言われた。 神田川の前身である平川は、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だった。 1590年(天正18年)に徳川家康が江戸に入府。江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。『江戸名所図会』(1836年)に描かれた神田上水の「目白下大洗堰」(現在の文京区関口大滝橋付近) 潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸も鹹水が混じった。平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われた。 家康家臣の大久保忠行は小石川上水
名称
別称
歴史
江戸市中の上水整備と平川の改修桜が満開な神田川
南小滝橋で撮影(東京都新宿区/中野区)
次に、江戸城拡張のため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に旧・平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀とつなぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の外濠(外濠川とも)とした[2][3]。
これらは家康が将軍を任官する以前の普請であり徳川家のみで行われていた。旧・平川に架けられた橋や河岸、蔵地、埋め立てた日比谷入江に建てられた大名屋敷(大名小路)は、大規模な氾濫で度々流されていたが、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いてからは大名に課した天下普請として大規模に行われるようになる。
この頃、急増した江戸の人口を潤すための上水は既に足りなくなり始めており、1653年(承応2年)に新たに玉川上水が引かれ、主に江戸の西部から南部にかけて供給された。 第二代将軍徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた[2][4][5]。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋
天下普請による瀬替え