神田 孝平
人物情報
別名孟恪(諱)、淡崖(号)
生誕 (1830-10-31) 1830年10月31日(天保元年9月15日)
美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)
死没 (1898-07-05) 1898年7月5日(67歳没)
東京府神田区淡路町(現・東京都千代田区神田淡路町)
国籍 日本
子供乃武(養子)
学問
研究分野洋学(蘭学)、数学、経済学
研究機関蕃書調所→洋書調所→開成所
主要な作品『経済小学』(1867年)
『評点 経世余論』(1879年)
学会東京学士会院
東京人類学会
東京数学会社
明六社
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日本の政治家神田 孝平
貴族院議員
選挙区(勅選議員)
在任期間1890年9月29日[1] - 1891年2月10日[2]
元老院議官
在任期間1876年9月3日 - 1877年2月6日
1880年2月28日 - 1890年10月20日
初代 兵庫県令
在任期間1871年12月31日(明治4年11月20日) - 1876年9月3日
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神田孝平
神田 孝平(かんだ たかひら、1830年10月31日(文政13年9月15日) - 1898年(明治31年)7月5日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家。男爵。号は淡崖。元は諱を孟恪、通称を孝平(こうへい)と名乗っていた。兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任した。東京数学会社初代会長。
日本最初の探偵小説の訳者として、神田楽山名義で「和蘭美政録」を訳出。写本で広まり後に、前半の「楊牙児奇談
」のみ成島柳北が大幅に手を入れて雑誌に連載後、書籍として刊行。その後博文館の雑誌「日本之法律」に元の稿本に神田自身が多少譯語を変えるなどして掲載されたの事であるが当該雑誌は発見に至って居ない。前半のみ「明治文化全集」翻訳文芸篇に吉野作造の校訂で収録、後半は雑誌「明治文化」の第五巻第九号及び第十号に分載。戦後各種の版本がある。岩手旗本竹中家家臣神田孟明の側室の子として、美濃国不破郡岩手村(現・岐阜県不破郡垂井町岩手)に生まれた。牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学ぶ。文久2年(1862年)、幕府蕃書調所教授となり慶応4年(1868年)3月4日には同頭取に昇進[3]。教え子に箕作麟祥、箕作大六、外山捨八らがいた[4]。
江戸開城後の明治元年(1868年)に明治政府に1等訳官として招聘される。明治4年(1871年)11月20日に兵庫県令(現在の兵庫県知事)に就任し、明治9年(1876年)9月3日まで務める。その間、明治3年(1870年)頃より地租改正を建議するとともに農民の土地売買の自由を唱えるなど当時としては画期的な提案を行い、同8年(1875年)の地方官会議では幹事役を務めて、後の公選民会の実現に貢献する。明治7年(1876年)に元老院議官就任。1877年には数学の近代化の必要性から柳楢悦とともに東京数学会社を設立[4]。
明治23年(1890年)に貴族院議員に選出される。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[5]。明治31年(1898年)、死に際して男爵に叙任される。脊髄病のため死去[6]。墓所は谷中霊園。
人物
民選論の理論家としても知られる。明六社の一員であり、東京学士会院の会員でもある。
養子の乃武は東京外国語学校の初代校長。
すでに失われて、この世に存在しないと思われていた「蘭学事始」の大槻家の写本を、偶然に湯島の露天で見つけた[7]。
栄典
位階
明治2年9月20日 - 従五位
1876年(明治9年)10月19日 - 従四位[8]
1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[9]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[10]
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[11]
勲章等
1882年(明治15年)6月17日 - 勲三等旭日中綬章
1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章
1898年(明治31年)7月4日 - 男爵[12]
著作
『評点 経世余論』 土居光華批評、正栄堂、1879年10月
『淡崖遺稿