神津藤平
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神津藤平(1916年)

神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日明治4年12月6日〉 - 1960年昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行八十二銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。

弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣羽田孜がいる。
経歴
北佐久の実業家

神津藤平は、明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた[1]。出身地は長野県北佐久郡志賀村[2][3](現・佐久市)。神津家の一族は志賀村で南北朝時代より続くとされる旧家・豪農で、当主が代々「九郎兵衛」を襲名する宗家(通称「黒壁家」)と17世紀後半に分かれた分家「赤壁家」という2つの系統がある[4]。神津藤平の家はこのうち「赤壁家」から出た分家にあたる[4]。祖父は神津孝太郎(1820 - 1847年)といい、村に朝鮮人参栽培を導入した人物である[5]

志賀村や岩村田の学校で学んだのち東京に出て福澤諭吉慶應義塾に入った[2]。神津一族には宗家19代の弟国助が1874年(明治7年)に入学して以来、慶應義塾で学ぶ者が多かった[2]1896年(明治29年)に卒業し[1]、一旦東京電灯に入社するが、両親が死去し兄も病弱なため帰郷[6]1897年(明治30年)5月に家を継いだ[1]。当初は家業である人参栽培や[6]、父が起こした金融業(神津合名会社[7])・醤油醸造(野沢醤油)に従事[3]1899年(明治32年)7月、南佐久郡野沢町に本店、志賀村に支店を構える野沢貯蓄銀行が設立されると取締役の一人となった[8](頭取は神津善之助[9])。1902年(明治35年)12月に同じく野沢町に本店、志賀村に支店を構える志賀銀行が設立した際にも神津善之助らと取締役に選ばれている[10]

事業に携わる一方で村政・県政にも参画した[2]。議員歴は1901年(明治34年)4月志賀村の村会議員に推されたことに始まる[2]。次いで1907年(明治30年)9月の長野県会議員選挙に北佐久郡から中立(無所属)で出馬して県会議員に当選した[11]。県会議員の在任は1期4年間であった[3]。さらに1912年(明治45年)から1913年(大正2年)11月にかけて第14代の志賀村長も務めている[12]。その後は政界には関係せず実業界に専念した[13]。北佐久郡における活動は、上記のほかに日露戦争期の北佐久産牛馬組合長就任と馬政局国立長野種馬所(1907年設置[14]、現・家畜改良センター茨城牧場長野支場)誘致[6]、薬用人参同業組合の結成[5]、中軽井沢でのカラマツ植林がある[13]

1912年(大正元年)11月、長野電灯の取締役に選出された[15]。同社は長野市所在の電力会社であるが、1911年に北佐久郡岩村田町に佐久支社を設置して長野県佐久地方にも進出していた[16]。次いで1914年(大正3年)1月、長野市にある長野商業銀行の取締役にも選ばれた[17]。長野商業銀行は西沢喜太郎が頭取を務める銀行で、長野市と松本市が地盤であった[18]。同年5月、長野商業銀行は県下の有力銀行である六十三銀行(本店長野市、八十二銀行の前身)に合併される[18]。この合併で神津は六十三銀行取締役へと転じた[19]

六十三銀行では1914年7月20日付で常務取締役に昇格し、以後1918年(大正7年)1月20日まで在職した[19]。当時の頭取飯島正治に請われたことによる常務就任であるが、その飯島と事業に関し意見が一致しなかったことによる辞任であった[20]。常務退任後も取締役には留任したものの、翌1919年(大正8年)7月これも退任した[19]。六十三銀行から退いた直後には志賀銀行(1919年初頭時点では頭取神津猛・常務神津藤平[21])を長野市へ進出させて六十三銀行に対抗している[20]。また六十三銀行時代の1917年(大正6年)8月、長野電灯関係者や鈴木三郎助味の素創業者)らが千曲川開発のための発電会社東信電気を起業すると[22]、神津は監査役として同社に加わった[23]
長野電鉄社長就任藤平の名を冠する中部電力藤平第二発電所(2010年)樽川にある中部電力藤平第一・第二両発電所は長野電鉄が建設した発電所で、1992年に中部電力が買収した際に神津藤平にちなんで「藤平」を冠する発電所名とした[24]

長野県北信地方のうち鉄道の便に恵まれなかった千曲川(信濃川)東岸地域、通称「河東地方」での鉄道新設を目指す動きは、第一次世界大戦勃発に伴う大戦景気期に大きく前進した[25]。その担い手は佐久地方に路線を持つ佐久鉄道(路線は現・JR小海線にあたる)と河東地方の有志であり、鉄道建設に向けて共同で新会社を立ち上げる運びとなった[25]。新会社設立にあたり、当時佐久鉄道で相談役であった神津藤平は創立委員長に推される[25]。会社設立の手続きは好況を反映して株式の公募申し込みが殺到するなど順調に進んだが、創立総会を控えた1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生し、前途を危ぶまれる状況となった[25]


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