神波 史男(こうなみ ふみお、1934年1月10日[1] - 2012年3月4日)は、日本の脚本家。深作欣二の信頼が厚かった脚本家として知られる。 東京市方南町生まれ[1]。小学校の時、集団疎開で長野へ行き、終戦後、永田町小学校に転入[1]。1952年に東京都立日比谷高等学校、1956年に東京大学仏文科卒業。同級生に佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫らがいた[1]。 1958年、東映へ入社[1]。映画界を志したのは「チンピラ左翼崩れの愛情乞食。安酒くらいの告白屋。そういうみっともない自分を破壊するには、なぜか映画に入るのが一番と思った」[2]からという。 入社後は企画本部脚本課配属となったものの、すぐ助監督部へ出向となる。しかし、基本給1万円で残業手当が3万円を超えるなど、過酷な労働環境に音を上げ、自ら脚本課への復帰を嘆願。これが認められ、以後、脚本家の道を歩む[3]。 1960年、『おれたちの真昼』で脚本家デビュー(同期の小野竜之助
来歴
1987年、『火宅の人』で第10回日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。
2012年3月4日、多臓器不全のため死去[7]。78歳没。 神波史男は自らを「ぼうふら」になぞらえていた。「流れモノ列伝 ぼうふら脚本家の映画私記」ではその心中をこう綴っている[8]。最近、畏友の小松範任監督に教わったのだが、小林一茶に孑?(ぼうふら)や日に幾たびの浮き沈み≠ニいう句があるそうで、ま、映画界を一本の濁流(少くとも清流ではない)と見立てれば、その中に偶々まぎれ込んだ一匹のぼうふらが小生だというわけだ。そこにはあまたの珍魚、怪魚、小魚大魚たちが棲息していて、ぼうふらはそれこそ幾度となく呑み込まれては、吐き出され排泄されたらしく……何とか生き延びて、あちこちふらついたあげくが岸辺の水溜まりに逃げ込んだようだ。首尾よく羽化して人々の生き血を吸うほどの甲斐性・エネルギーもないまま、力弱く身を振りつつ今や淀みの底のヘドロに沈みかけているといった処である。ほうやれほう……。 また岡野弘彦の短歌「胸底に澱のごとくに沈みくるこの悔しさに老いてゆくべし」の下の句を改変した「この悔しさに生きてゆくべし」を座右の銘としており[6]、死後、追悼出版された本のタイトルにも使われた。 こうしたナイーブとも言える一面を有する一方、神波には空手道場「誠真会館」の名誉顧問という顔もあった。これは同道場の館長・井上誠吾との親交に基づくもので、神波の死後も同道場主催で「故神波史男先生を偲ぶ会」や一周忌墓参会などが催されている[9]。
人物
作品
映画
おれたちの真昼 (1960年)※小野竜之助との共作
風来坊探偵シリーズ(1961年)※松原佳成
風来坊探偵 赤い谷の惨劇
風来坊探偵 岬を渡る黒い風
荒原牧場の決闘 (1961年)※小野竜之助との共作
真田風雲録(1963年)※福田善之、小野竜之助との共作
ジェリーの森の石松 (1963年)※小野竜之助との共作
あばずれ (1966年)※渡辺祐介との共作
非行少女ヨーコ (1966年)※小野竜之助との共作
北海の暴れ竜(1966年)※佐治乾との共作
網走番外地 大雪原の対決