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日恭(にっきょう、1869年9月16日 - 1945年6月17日)は、大石寺第62世法主。鈴木姓。筑後阿闍梨。信譲院。道号は慈謙。太平洋戦争が勃発し、国をあげて神社神道を保護していたため、思想、宗教が弾圧され、宗門の存続も危ぶまれるほど大変な時代であった。終戦間際の1945年6月17日、客殿の火災によって死去した。
略歴
1869年(明治2年)9月16日 -福岡県御井郡久留米京之隅に村上成幸を父として 誕生。俗名は武雄。
1880年(明治13年)12月20日 - 佐野広謙尼を師僧として得度。鈴木慈謙。
1883年(明治16年)2月25日 - 第52世法主日霑の弟子となる。
1891年(明治24年)3月28日 - 大石寺塔中理境坊看主となる。ついで、8月12日には大石寺塔中百貫坊住職となる。
1892年(明治25年)10月7日 - 大石寺塔中本住坊住職となる。
1903年(明治36年)2月20日 - 霑妙寺(福岡県久留米市)住職となる。
1905年(明治38年)7月21日 - 後の長崎県長崎市の正霑寺の設立を出願し、認可される。
1908年(明治41年)4月27日 - 後の福岡県北九州市門司区の妙境寺の設立を出願し、認可される。
1927年(昭和2年)4月21日 - 大阪市蓮華寺の住職となる。
1935年(昭和10年)10月2日 - 第61世日隆より法の付嘱を受け、大石寺第62世日恭として登座。
1945年(昭和20年)6月17日、大石寺の火災に巻き込まれ75歳で焼死、遷化した。そのため第61世日隆が再登座する。
1946年(昭和21年)1月25日、再登座した第61世日隆により第63世日満へ付嘱相承された。
『神札問題』
大石寺では、その教義の上から、神札を謗法と呼び祀ってはならないとされている。しかし、太平洋戦争の時代にあっては軍部により、神札を押し付けられるという事態が発生し、その対応に苦労した。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争勃発。
1943年(昭和18年)、大石寺大書院が、軍部に中部勤労訓練所として徴用され、訓練所の所長らに神札を祀られるという事件が発生した。大石寺側は宗旨に反するからという理由で抗議をしたが、軍部は受け付けなかった。
1943年(昭和18年)6月、創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城聖理事他数名を登山させ、神札受取に関して本山とやり取りした記録。