神智学協会
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神智学協会の紋章


ヘンリー・スティール・オルコット(左)とヘレナ・P・ブラヴァツキー(右)
ウイリアム・クァン・ジャッジ神智学協会設立趣意書

神智学協会(しんちがくきょうかい、英語: Theosophical Society)は、ヘレナ・P・ブラヴァツキーヘンリー・スティール・オルコット、ウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)らが1875年にアメリカニューヨークで結成した神秘思想団体である[† 1]神智学[† 2]を振興した。神智協会(しんちきょうかい)とも。

設立の背景には、19世紀後半のアメリカ・ヨーロッパで既存の教会を批判する一種のリベラリズムとして出現した「心霊主義」(spiritualism) の流行がある[7]。神智学協会は仏教ヒンドゥー教などの東洋の宗教思想の西洋への普及に貢献し、一方、インドの人々には普遍主義的なヒンドゥー教改革運動の一種として受け取られた[4]

神智学協会は思想面だけでなく社会的・政治的面でも一定の役割を果たし[† 3]、1920年代頃までは、洋の東西を問わず「世界をおおうバニヤン樹」といえるほどの広範な影響力を有していた[9]

協会自体の活動は1930年代には下火になったが[9]、その思想は書物などを通じて現代まで大きな影響がみられる[10]。中心人物であったブラヴァツキーの思想は近現代の主要な神秘主義者たちに直接間接に影響を与え[11]、のちのアメリカのニューエイジ運動(現在のスピリチュアル)における様々な思想・信仰、大衆的オカルティズムの起源とされる[12][13](詳細は「神智学」を参照)。

神智学協会はいくつかに分裂しており、その実態はつかみにくいが、21世紀には[† 4]、インドに本部のある神智学協会は約70ヶ国に支部があり、会員3万3千人ほどとされる[14]
神智学協会の概略ブラヴァツキー夫人オルコット大佐

1875年ロシア出身のヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人、HPBと略記、1831年 ? 1891年)、弁護士で名誉大佐のヘンリー・スティール・オルコット(通称オルコット大佐、1832年 - 1907年[† 5]、オルコットの同僚の若き弁護士ウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)(1851年 - 1896年)ら、一握りの人々によって「オカルティズムやカバラ等々の研究と解明のために」[15]ニューヨークで神智学協会が設立された。

当時、ブラヴァツキーの住んでいたアパートでは、オカルトに関心のある少数の人々が定期的に集会を開いており、1875年9月の会合ではジョージ・ヘンリー・フェルトという人物がカバラやエジプトの秘儀について講演を行った。そこでのフェルトの精霊に関する議論に刺激を受けて、オルコットはこの種のことを研究する会を組織することを思い立ち、ブラヴァツキーに提案した[16]

かくして同年11月17日、「神智学協会」が発足した。当初の会員は18名ほどであった。オルコットが初代会長となり、初代副会長に解剖学教授セス・パンコーストと前述のフェルト、通信書記にブラヴァツキーが選出された。草創期の主な会員には元霊媒のエマ・ハーディング・ブリテン、著名なフリーメイソンのチャールズ・サザラン、ニューヨークの心霊協会会長ヘンリー・ニュートン、ニューヨークに来ていたロンドンの弁護士チャールズ・マシィなどがいた[15]

団体名に「神智学」という言葉を使うことを提案したのはチャールズ・サザランであった[17]。他に、医学者アレクサンダー・ワイルダー[† 6]アブナー・ダブルデイトーマス・エジソンなど、さまざまな人物が初期の神智学協会に参加した[19]

1877年、ブラヴァツキーの主著『ヴェールを剥がれたイシス』(Isis Unveiled: A Master-Key to the Mysteries of Ancient and Modern Science and Theology)が出版される。

1878年、創立時からの会員である英人チャールズ・マシィが帰国して「英国神智学協会」が設立される[20]。オルコットらはヒンドゥー教改革団体アーリヤ・サマージとの提携を決め、12月、オルコット、ブラヴァツキーら数名がインドに向けて出立。雑誌『神智学徒』

1879年、ボンベイ(現ムンバイ)を拠点にインドでの活動を開始し、雑誌『神智学徒(英語版)』創刊。

1880年、ブラヴァツキーがインドの有力な英字紙の編集者であったアルフレッド・パーシー・シネット(英語版)の夏の別荘に滞在中、シネットの求めに応じて大師クートフーミから返信の手紙が届き、以後数年間に及ぶマハトマたちとの文通が開始される(A・P・シネット宛マハトマ書簡)[21][† 7]

1882年、マドラス(現チェンナイ)南郊のアディヤール (Adyar;アダィヤール[† 8] [Adayar] とも) に神智学協会本部が設立される。

1883年、協会本部内に設けられた密閉されているはずの厨子の中にマハトマ書簡が頻繁に出現するようになる[24]アンナ・キングスフォードが英国神智学協会に加入、ロンドン・ロッジの長となるも、キリスト教神秘主義を志向したキングスフォードは帰国したA・P・シネットらのインド派と対立、シネットが同ロッジの会長となる[20]レッドビータ

1884年、ブラヴァツキーとオルコットは欧州に旅行に出る。おおぜいの聴衆に迎えられ、多くの名士や知識人、新聞記者らが見に来る。これに伴いドイツでは「ゲルマン神智学協会」が設立される[25]。アンナ・キングフォードは自身の率いるヘルメス・ロッジを「ヘルメス協会」に改組して神智学協会から独立[20]。アディヤール本部の家政を任されていた元使用人エマ・クーロンは、マハトマ書簡やその他のさまざまな奇蹟は虚偽だったと暴露し、「奇跡」を起こすように指示したブラヴァツキーの手紙を公開(クーロン事件)[22]。これを機にロンドンの心霊現象研究協会は会員のリチャード・ホジソンを現地に派遣し、同年末、ブラヴァツキーがヨーロッパから帰還する前に調査が開始される。チャールズ・ウェブスター・レッドビータが協会に加わる。

1885年、「マハトマ書簡」の筆跡はブラヴァツキーのそれと同じであり、ブラヴァツキーは巧妙な詐欺師だと断定するホジソンの報告書が発表され(ホジソン・レポート)、協会は決定的な打撃を受ける[† 9]。ブラヴァツキーは混乱を避けてヨーロッパに舞い戻り、オルコットはインドに残る。ホジソン・レポートの打撃を克服するため、ブラヴァツキーは隠棲先のヴュルツブルクで原稿を書き始める[26]機関誌『ルシファー』

1887年、先の不祥事による混乱が沈静化すると、ブラヴァツキーはイギリスのロンドンに移り、小説家メイベル・コリンズ(英語版)の家に逗留。ロンドン・ロッジとは別にブラヴァツキー・ロッジを開設し、機関誌『ルシファー(英語版)』が創刊される[27]

1888年、ブラヴァツキーが2年間に書き溜めた原稿が第2の主著『シークレット・ドクトリン』(The Secret Doctrine)として出版される。ブラヴァツキーのロッジ内に「秘教部」が創設される[28]アニー・ベサント

1889年、後に協会の中心となる社会活動家アニー・ベサントが加わる。

1891年、ブラヴァツキー死去。後継者としてアニー・ベサントを指名するが、権力闘争となる。

1895年、アメリカのジャッジと、インドのオルコット、ベサントが決別。アメリカのジャッジの組織は「アメリカ神智学協会」として分離独立(この分裂以降、オルコットとベサントの率いるインド、ヨーロッパの派閥をアディヤール派(英語版)と呼称する)。キャサリン・ティングリー

1896年、米神智学協会を率いたジャッジが死去し、キャサリン・ティングリー(英語版)がその運営を引き継ぐ(この派は後にサンディエゴ近くのポイントロマにコミュニティーを築き[29]、ポイント=ローマ派と呼ばれる[30]。)[† 10]。ティングリーが各地で自派の正統性を訴えると、これに呼応してベルリンで米神智学協会傘下の「ドイツ神智学協会」が設立され、医師フランツ・ハルトマン(英語版)[† 11]がその指導者となる[33]

1897年、フランツ・ハルトマン、ミュンヘンで「国際神智学同胞会」という分派を設立(翌年ライプツィヒへ移動)[34]シュタイナー

1902年、会員の一人ルドルフ・シュタイナーがベルリンに神智学協会(アディヤール派)のドイツ支部を設立、その事務総長に就任。同地でシュタイナーは雑誌『ルツィフェル』を発刊(後に『ルツィフェル=グノーシス』に改名)[35]

1907年、オルコット死去、ベサントがインドの神智学協会(現神智学協会アディヤール派(英語版))のトップに就任。クリシュナムルティ

1909年チャールズ・ウェブスター・レッドビータがインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを見出し、ベサントが養子として英才教育を施す。ロバート・クロスビーが米神智学協会(ポイント=ローマ派)から分かれて「ユナイテッドロッジ」(en:United Lodge of Theosophists)を結成[36]。イギリスの会員G・R・S・ミード(英語版)が脱退して「クエスト協会」を設立[36]

1912年、神智学協会の第2代会長であったベサントとレッドビータがクリシュナムルティを世界教師(=キリストの再来)とする動きに反発し、ルドルフ・シュタイナーは神智学協会を脱退。

1913年、シュタイナーが分離独立、人智学協会(アントロポゾフィー協会)を設立。アリス・ベイリー

1923年、米国の神智学協会(アディヤール派)に関わっていたアリス・ベイリー、独立して「アーケイン・スクール」(不朽の知恵、秘教占星学)を発足させる。

1925年、ベサントがクリシュナムルティをトップとする「東方の星教団(英語版)」設立。ディオン・フォーチュンの『コスミック・ドクトリン』が発表され、フォーチュンは神智学協会キリスト教神秘主義ロッジの会長となる(1927年まで在任)[37]

1929年、クリシュナムルティ本人が「真理は集団で追求するものではない」との考えに基づき、「東方の星教団」を解散する宣言を行い、神智学およびすべての宗教から離れる。インド、スリランカなど一部を除き、神智学協会の多くの組織が離反、協会の大部分が消滅する。

1934年、レッドビータ死去。アディヤール派はベサントとレッドビータの著作をもとに〈神智学〉を再構築(ネオ神智学)。内容はブラヴァツキーのものと幾分異なる。
神智学協会の目的.mw-parser-output .sidebar{width:auto;float:right;clear:right;margin:0.5em 0 1em 1em;background:#f8f9fa;border:1px solid #aaa;padding:0.2em;text-align:center;line-height:1.4em;font-size:88%;border-collapse:collapse;display:table}body.skin-minerva .mw-parser-output .sidebar{display:table!important;float:right!important;margin:0.5em 0 1em 1em!important}.mw-parser-output .sidebar-subgroup{width:100%;margin:0;border-spacing:0}.mw-parser-output .sidebar-left{float:left;clear:left;margin:0.5em 1em 1em 0}.mw-parser-output .sidebar-none{float:none;clear:both;margin:0.5em 1em 1em 0}.mw-parser-output .sidebar-outer-title{padding:0 0.4em 0.2em;font-size:125%;line-height:1.2em;font-weight:bold}.mw-parser-output .sidebar-top-image{padding:0.4em}.mw-parser-output .sidebar-top-caption,.mw-parser-output .sidebar-pretitle-with-top-image,.mw-parser-output .sidebar-caption{padding:0.2em 0.4em 0;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-pretitle{padding:0.4em 0.4em 0;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-title,.mw-parser-output .sidebar-title-with-pretitle{padding:0.2em 0.8em;font-size:145%;line-height:1.2em}.mw-parser-output .sidebar-title-with-pretitle{padding:0 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-image{padding:0.2em 0.4em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-heading{padding:0.1em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-content{padding:0 0.5em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-content-with-subgroup{padding:0.1em 0.4em 0.2em}.mw-parser-output .sidebar-above,.mw-parser-output .sidebar-below{padding:0.3em 0.8em;font-weight:bold}.mw-parser-output .sidebar-collapse .sidebar-above,.mw-parser-output .sidebar-collapse .sidebar-below{border-top:1px solid #aaa;border-bottom:1px solid #aaa}.mw-parser-output .sidebar-navbar{text-align:right;font-size:75%;padding:0 0.4em 0.4em}.mw-parser-output .sidebar-list-title{padding:0 0.4em;text-align:left;font-weight:bold;line-height:1.6em;font-size:105%}.mw-parser-output .sidebar-list-title-c{padding:0 0.4em;text-align:center;margin:0 3.3em}@media(max-width:720px){body.mediawiki .mw-parser-output .sidebar{width:100%!important;clear:both;float:none!important;margin-left:0!important;margin-right:0!important}}.mw-parser-output .side-headbg-left{text-align:left}.mw-parser-output .side-headbg-w15em{width:15em}.mw-parser-output .side-headbg-w16em{width:16em}.mw-parser-output .side-headbg-w22em{width:22em}.mw-parser-output .side-headbg-w150px{width:150px}.mw-parser-output .side-headbgr-top-image-default{padding:0;line-height:0.4em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-pretitle{padding-top:0.2em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-pretitle-with-top-image{padding-top:0.2em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-title{background:#ccf;padding:0.2em 0.4em 0.2em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-title-with-pretitle{background:#ccf;padding:0.2em 0.4em 0.2em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-heading{background:#ddf;padding:0.2em 0.4em 0.2em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-content{padding:0.3em 0.4em 0.6em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-content-with-subgroup{padding:0.3em 0.4em 0.6em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-above{padding:0;line-height:0.4em}.mw-parser-output .side-headbg .sidebar-below{background:#ddf;padding-top:0.3em}.mw-parser-output .sidebar-headbg .sidebar-navbar{padding-top:0.4em}


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