神戸外国人居留地(こうべがいこくじんきょりゅうち)は、安政五カ国条約に基づき、1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日までの間、兵庫津の約3.5 km東に位置する[1]神戸村(後の兵庫県神戸市中央区)に設けられた外国人居留地である。神戸居留地とも略称される。
東を旧・生田川(後のフラワーロード)、西を鯉川(後の鯉川筋)、南を海、北を西国街道(後の花時計線)に囲まれた[2]広さ約7万8,000坪[3](約258,000平方メートル)の区域が合理的な都市計画に基づいて開発され、「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された[4]。一定の行政権・財政権などの治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された自治機構によって運営された。運営は円滑に行われ、日本側と外国側との関係もおおむね良好であったと評価されている[5]。貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた[6]。
※本記事においては必要に応じて居留地周辺の雑居地・遊歩区域や居留地返還後についても記述する。
歴史
兵庫開港1879年の地図(兵神市街の図)
この年に神戸区(兵庫津+坂本村+神戸町)が発足したが、まだ神戸港の範囲(?1892年)と雑居地の範囲(?1899年)は宇治川 - 旧生田川間だった。
1858年7月29日(安政5年6月19日)、江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結した。江戸幕府は同条約第6条において日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、第3条において1863年1月1日(文久2年11月12日)に兵庫(兵庫津。かつての大輪田泊)を条約港として開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結した[7]が、これらの条約に関する勅許が得られず、諸外国と交渉を行った結果、兵庫開港の期日を5年遅らせ、1868年1月1日(慶応3年12月7日)とした[8]。朝廷側は御所のある京都に近い兵庫を開港することに難色を示し[9]、1865年12月22日(慶応元年11月5日)に安政五カ国条約についての勅許を与えた後も許そうとせず[10]、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)になってようやく勅許が与えられた[11][12][† 1]。
江戸幕府は勅許を得る前から兵庫開港に向けた交渉を諸外国と行っており、1867年5月16日(慶応3年4月13日)にイギリス・アメリカ・フランスとの間に「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を締結した[14]。同取極第1条には「日本政府において条約済の各国人兵庫に居留地を神戸町(神戸村)と生田川との間に取極め…」と規定され[1][15]、兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村に居留地が設けられることになった[1]。そしてそれに伴い、神戸村の海岸に建設される新たな港が外国に開放されることになった(新たな港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港と名付けられた[16])[1]。
「兵庫開港」において、兵庫津ではなく後の神戸港が開放されることになった理由・経緯を示す資料は存在しない[1]が、複数の推測がなされている。楠本利夫『増補 国際都市神戸の系譜』は、江戸幕府側が外国人を敬遠する住民感情[† 2]を考慮し、衝突が起こらないようにとの配慮から、すでに港として栄え(兵庫津は当時大坂の外港として機能し、取引の盛んな港であった)往来の激しい兵庫津の開放を避けたと推測している[18][† 3]。また、『新修神戸市史 歴史編3』および『増補 国際都市神戸の系譜』は、人口の多い兵庫津周辺よりも神戸村のほうが用地の確保が容易であり[† 4]、1865年(元治2年)に閉鎖された神戸海軍操練所の施設を活用できたためと推測している[1]。さらに『増補 国際都市神戸の系譜』は、1865年11月(慶応元年9月/10月)に兵庫津付近の海域を測量したイギリス公使ハリー・パークスの随行員が「兵庫の旧市内からやや離れたところにある」居留地の予定地について「十分な水深もあり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と評価した記録を残していることを取り上げ、「兵庫の旧市内からやや離れたところにある予定地」とは神戸村を指しており、外国側も兵庫津より神戸村のほうが開港場に適しているという認識を持っていたと推測している[21]。なお、神戸港の港域は1892年(明治25年)に拡大され、兵庫津を含むようになった[22][23]。