神島_(和歌山県)
[Wikipedia|▼Menu]

神島

鳥巣半島から望む神島。2019年8月12日撮影。
所在地日本和歌山県
所在海域田辺湾
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度42分11秒 東経135度22分32秒 / 北緯33.70306度 東経135.37556度 / 33.70306; 135.37556座標: 北緯33度42分11秒 東経135度22分32秒 / 北緯33.70306度 東経135.37556度 / 33.70306; 135.37556
最高標高24 m
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}      
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

神島(かしま)は、和歌山県田辺市にある無人島。全島が照葉樹林に覆われ、南方系の植物が多く知られることから、天然記念物に指定されている。南方熊楠が保存運動に動いたことでも知られている。
概要神島の空中写真。1975年撮影。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

神島は田辺湾の内側にある無人島で、行政区分としては田辺市新庄町3972番地である。古来より島全体を海上鎮護の神として崇め、樹林は神林として、また魚付き林として地元の保護を受け、明治まで人手のほとんど入らない森林を維持し続けた[1]

この島が貴重な生物の住むところであることは古くから知られており、特にこの島に生育するハカマカズラの種子で作られた数珠は熊野詣での人たちに特別なお守りとして珍重されたことが知られている。明治期には南方熊楠が再三この島に渡り、生物採集を行った。

神社合祀によってこの島の森林が伐採される計画が出たとき、南方はこれに猛烈な反対運動を行い、地元の協力を得ると共に、中央の研究者や役人に働きかけ、法律的な保護がつくこととなった。1929年には昭和天皇がこの地を訪れたことも知られている。

1990年代に入ると、海鳥の集団が島に居着くことが起こり、その糞によって森林に大きな影響が出ることが複数回にわたって起こった。鳥を追い払う計画も行われたが、被害は大きく、森林の荒れが目立つようになっており、これをどう回復させるかが当面の課題とされている。
地勢

神島は北緯33°42'、東経135°22'50にある面積2.99haの小島である。一番近い陸地は新庄町鳥ノ巣で、その間の距離は500m足らずである。位置としては田辺湾の南側の湾口にやや近い位置にあり、より湾口側の隣には畑島がある[2]。湾口の反対側には天神崎がある。

島は大きく2つの島から成り、大きい方を「おやま」、小さい方を「こやま」と呼び、両者は干潮時には岩礁でつながる。「こやま」は標高約20mで、周囲は崖に近い急傾斜であり、背の低い樹木に覆われているものの、あまり大きな樹木はない。「おやま」の方は標高約30m近く、やや東西に細長く、南側の斜面は崖だが、北側はなだらかな部分もあり、海岸には砂浜もある。全体が背の高い森林に覆われ、神社のほこらもこちらの山頂近くにある。川はないが、わずかに水がわき出すところはある。

「おやま」の岩礁に船が接岸できるようになっており、地元の釣り船で渡ることが出来るが、上陸は田辺市教育委員会の許可が必要である。ときおりボランティアによる海岸の清掃作業が行われる。この砂浜には昭和天皇の行幸を記念した南方熊楠の歌碑が建てられている。
利用

古くから魚付き林として大事にされたようである。神島の名も古くからここに神を祀ったことによるようだが、古い記録では神の名が挙げられていない。上述のようにこの島のハカマカズラの種子は数珠として珍重され、1940年代までは秋に新庄村でこれを採取して京都の仏具屋に売っており、その量は毎年数十リットルに達したと言われる[3]。ハカマカズラの産地は他にも何カ所かあるが、神島のものが特に珍重されたとも言われる。

神島への船の出る田辺市磯間に近い場所にある和歌山県立田辺商業高校(現在は和歌山県立神島高等学校)は、その校章がハカマカズラから取られており、これは学校が神島に近いことから選ばれたものである。学校創設時の教頭であった楠本定一は南方熊楠の長男、熊弥の親友であった由[4]

現在では法的保護の下におかれているために島内は立ち入り禁止であり、上陸を求める場合には田辺市の許可が必要である。ただし近辺の岩礁は釣りによく用いられ、そこへ行き来する船は近くにある磯間漁港などから出る。また、南方熊楠賞の受賞者が授賞式の翌日にこの島を訪れるのが半ば慣例のようになっている。椿啓介青木淳一が上陸して、それぞれにサンプル採集を行っていった。
歴史

以下の記述は田辺市教育委員会(1988)および真砂(1987)に依っている。

田辺地方の伝説には、この島と、より北の南部沖の鹿島(かしま)に関する伝説がある。それによると、昔に巨人が島を天秤棒で担いでいて、その天秤棒が折れて海に落ちたのがこの2つの「かしま」になったと言う。

一説には神島の名が現れる最古の文献は『万葉集』である。遣新羅使人の歌に「月よみの光を清み、神島の磯間の浦に船出すわれは」がこの島を指すとの説がある[5](ただし、この歌の神島は岡山県の、あるいは広島県のものとする二通りの説が主流である)。磯間の浦は神島に近い、田辺湾奥の地名であり(現在は田辺市磯間)、現在も神島への船はここから出る。これ以降も平安時代以降まで神島と磯間の浦の組み合わせがいくつかの歌に見える。また江戸時代には『紀伊続風土記』などいくつかの書物に名勝としてその名が挙げられ、紹介されている。そこでは「祀られている神は不詳」とされているが、新庄村の史蹟登録には祭神について「健御雷之男命、武夷鳥命」とある。

この頃から神島はむしろ生物研究の対象として挙げられることが多くなる。すでに江戸時代の本草学の分野でその名が見える。小野蘭山がこの島に渡ったとの説もあるが、これは根拠に乏しい。畔田翠山の『熊野物産初志』にはワンジュ(ハカマカズラのこと)の産地としてその産地名に田辺加島が、大辺路、江須崎などと並んで取り上げられている。

幕末に日本近海を測量したイギリス船アクティオン号の船医アーサー・アダムスは貝類の研究家で、紀伊半島でも数カ所で採集を行った。その際、1861年に神島にも上陸したらしいことが、採集品や記録から推定されている。1901年には日本の貝類研究家の平瀬与五郎の採集人であった中田次平が紀南地方で採集を行い、やはり神島に上陸したらしい。このようなことから、ハカマカズラと共に陸産貝の産地としてもその名が知られていた。
熊楠の保護運動

1902年には南方熊楠が初めてこの島に渡り、2年後には田辺に居を定め、神島を含む周辺の生物研究にいそしんだ。神島の粘菌については「植物学雑誌」に報文を出している。

ところが1907年頃から始まった神社合祀運動の中で、神島神社も新庄村の大潟神社との合祀が決まり、神体のなくなった島は伐採してよい、ということで伐採が始まり、その代金で新庄小学校の校舎改築の代金にする事になった。熊楠は神社合祀に反対運動を行っていたが、特に神島は学術上の重要性があるとして大いに反対した。彼は神島の森の伐採が漁業に大きな悪影響があること、ハカマカズラの重要性やその保護の意義などを説いて新庄村長を説得したところ、村長も納得し、村議会で伐採の中止を決議、代金の払い戻しを行った。ただし、この時点で「こやま」の伐採はすでに行われている。

熊楠はこれに飽き足らず、神島については法律的な保護が必要と考え、東京大学教授の松村任三と貴族院書記長官の柳田國男に長文を送って保護を訴えた(南方二書といわれる)。これを受けて和歌山県は1912年に神島を魚付き保安林に指定した。熊楠はこれだけでは不足と考え、さらに田辺高等女学校の宇井縫蔵と共に「ハカマカズラの北限自生地」として和歌山県の天然記念物に指定するよう申請を行い、1930年には県の天然記念物に指定された。

1929年に昭和天皇が田辺湾に軍艦で来訪、神島に上陸して生物調査を行い、その際に熊楠は軍艦の上で進講した。それを機に熊楠は大阪毎日新聞に「紀州田辺湾の生物」を連載、そこで神島の生物や貴重性についても詳しく書き、またすでに一部が伐採されたことにも触れた。また翌年には天皇行幸を記念して熊楠の自詠自筆による歌碑が建てられ、それを機会に彼は神島を国の天然記念物にすることを提唱した。彼はその資料を作るために1934年に田辺営林署に依頼して島の詳しい地形図を作成させ、営林署員や地元の学校教員などの協力を得てこれにすべての樹木の位置と種名を書いた「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作成、それに調査報告書を添えて文部省に提出、国の天然記念物の指定を申請した。それに対してその翌年、植物学の三好学、地質学の脇水鉄五郎が調査のために来島、それらを受けて1935年12月24日、国の天然記念物に指定された。

なお、熊楠の死後、1962年に昭和天皇が行幸の際に熊楠を偲んで詠んだものによる歌碑は、白浜番所山の、ちょうど神島を見通せる尾根に建てられている。
熊楠以降

それ以降もこの島での学術調査は数多い。特に陸産貝では畔田徳米波部忠重もこの島で調査を行い、1949年に日本貝類学会が白浜京都大学臨海実験所で行われた際にはエクスカーションがこの島で行われた。

その後、新庄村が田辺市と合併し、島の管理が田辺市に移った。1955年、田辺市教育委員会に文化財調査会が設置され、その最初の事業として神島の調査が行われた。これは戦後の混乱期に神島で盗伐が行なわれたことや、熊楠の調査から20年も経過していることなどによる。この調査では土壌動物の調査を愛媛大学の森川圀康に依頼した。

まとまった調査としては、第三回のものが1983年から田辺市教育委員会によって行われた。これは熊楠の調査からほぼ半世紀を経ていたこと、その間に様々な変化があったらしいことがわかってきたためである[6]。調査は3年にわたって行われ、その報告書は1988年に出された。以下の生物相などの記述は主としてこれによっている。

その後も個別の研究者がこの島を訪れることはあり、それぞれに成果が上がっている。

2015年9月24日、吉野熊野国立公園が拡張され、神島も国立公園に含まれることとなった。同10月7日、神島を含む熊楠ゆかりの地13ヵ所が「南方曼陀羅の風景地」として国の名勝に指定された。
生物
植生


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef