神宮文庫
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神宮文庫
Jing? Library
神宮文庫本館
施設情報
正式名称神宮文庫
前身豊宮崎文庫、林崎文庫ほか
専門分野神道、日本文化
事業主体神宮司庁
管理運営神宮司庁
開館1907年明治40年)
所在地516-0016
三重県伊勢市神田久志本町1711
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度29分6秒 東経136度43分33秒 / 北緯34.48500度 東経136.72583度 / 34.48500; 136.72583座標: 北緯34度29分6秒 東経136度43分33秒 / 北緯34.48500度 東経136.72583度 / 34.48500; 136.72583
ISILJP-1002044
統計情報
蔵書数約30万冊(2011年[1]時点)
公式サイト ⇒神宮文庫
備考国史跡
地図

プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館
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神宮文庫(じんぐうぶんこ)は、伊勢神宮が運営する図書館である。伊勢の神宮公益事業であり、神宮の宗教法人としての規則である神宮規則第64条によると、「神宮所蔵の図書を整理保存し、日本固有文化に資する図書の蒐集及び補修を行い、これを一般に閲覧せしめ、文化の発展、智識の向上に資するを目的とする」。内宮外宮が所蔵していた文書・記録などのほか、慶安1年(1648年)に設立された豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)と、貞享3年(1686年)に設立された林崎文庫(はやしざきぶんこ)所蔵の図書を明治時代に統合・保管するために1906年明治39年)に設立された。基本的に木曜-土曜日には一般の利用が認められている。一般の利用が可能な日時は#外部リンクの公式サイトを参照のこと。
沿革
江戸時代以前

奈良時代766年天平神護2年)、文書類を保管するために内宮に文殿(ふどの)がつくられた。外宮ではこれに遅れること約500年、鎌倉時代1261年弘長元年)に神庫(しんこ)がつくられた。これらの施設では神宮に関係しない文書・記録をも所蔵し、神職研究調査に利用されたが、禰宜以下の者には利用が許されなかった。

南北朝時代正平年間(北朝では貞和年間であるが、北畠家支配下の伊勢国にあることもあって神宮は南朝よりであった)、戦乱で文書などが散逸することをおそれた荒木田経延が現在の伊勢市宇治今在家町に岡田文庫を設立するものの、直後の1347年正平2年、北朝では貞和3年)12月20日に焼失し、再興されることはなかった。

外宮内宮の対立もあり、これらの施設は明治維新後に廃止されるまで統一されず、両宮それぞれで独立して管理・運営された。
豊宮崎文庫詳細は「豊宮崎文庫」を参照旧豊宮崎文庫
北緯34度29分6秒 東経136度42分33秒 / 北緯34.48500度 東経136.70917度 / 34.48500; 136.70917 (旧豊宮崎文庫)

天下泰平となった江戸時代慶安1年(1648年)、国学者として知られる外宮権禰宜出口延佳(度会延佳)の提唱に与村弘正・岩出末清・檜垣常基や御師、総勢約70名が賛同・出資し、外宮の東隣の豊宮崎(現在の伊勢市岡本3丁目、「豊受宮の尾崎」の意味で外宮神域の先に由来する地名)に豊宮崎文庫を設立した。この豊宮崎文庫に設けられた講堂では和学・漢学などの講義が行なわれ、神職の養成に勤めた。

寛文1年(1661年)に山田奉行八木宗直江戸幕府に働きかけ、豊宮崎文庫の修理料として米20石の畝地が寄贈された。宗直は文庫式条を定め、豊宮崎文庫設立に協賛した有志が出資し維持にあたる、籍中と称する財団により図書の購入や出納・謄写・曝涼などの業務を行う、などとした。8組で構成された籍中は行事を順番に交代で勤めた。当初70人であった籍中は後に100人を超えたと元禄10年(1697年)の『山田町方古事録』に記されている。

日本各地に豊宮崎文庫の名が知れ渡り、寛政8年(1796年)に水戸小宮山昌秀から『太神宮参詣記』の古写本が、肥前島原城松平忠房からは中国最古の史書の1つとされる『古文尚書』(13巻、明経道(みょうぎょうどう)博士の清原家に伝えられていた鎌倉時代の写本。神宮徴古館所蔵の重要文化財)が、安政4年(1857年)には水戸藩徳川斉昭から『大日本史』の初摺本を寄贈されるなど、多くの学者からの書籍の寄贈が相次ぎ、豊宮崎文庫の蔵書は20,000冊を超えることになる。

日本各地の学者らの協力は書籍の寄贈にとどまらず、室鳩巣貝原益軒伊藤東涯などの学者が豊宮崎文庫を訪れ講演を行なった。
林崎文庫旧林崎文庫
北緯34度27分33秒 東経136度43分16秒 / 北緯34.45917度 東経136.72111度 / 34.45917; 136.72111 (旧林崎文庫)

豊宮崎文庫設立から約40年後の貞享3年(1686年)、内宮周辺の自治を行なっていた宇治会合年寄(うじかいごうとしより)らが中心となり、内宮に豊宮崎文庫と同様の文庫を設立する計画を立てた。山田奉行岡部駿河守勝重が江戸幕府から150両の下付を受け、翌貞享4年(1687年)に五十鈴川西岸の丸山(現在の宇治今在家町の内宮前駐車場)に内宮文庫(ないくうぶんこ)が設立された。しかし丸山は多湿で文書の保管に不適切と判断され、3年後の元禄3年(1690年)に丸山の北に隣接する林崎に移転、林崎文庫と改称した。しかし林崎文庫は豊宮崎文庫と違い経営主体を整備せず幕府の援助に頼ったため、100年経たないうちに荒廃してしまう。

この状況に嘆き立ち上がったのが国学者の谷川士清の娘婿で、内宮権禰宜兼副物忌父職を勤めていた蓬莱(荒木田)尚賢である。国学者の賀茂真淵にも学才を認められていた尚賢は天明2年(1782年)に書庫・講堂・塾舎などを整備、江戸京都大坂に献本の取次所を設けるなど尽力した。古くから尚賢と交友関係にあった本居宣長は『林崎のふみくらの詞』を著し林崎文庫の存在を称揚するなどで協力、京都で古書販売を営んでいた勤思堂の村井敬義は尚賢に感銘し、延宝9年(1681年)2月写の『一代要記』などの多くの貴重図書を含む2,602部を寄贈した。最終的には林崎文庫の蔵書は10,978冊[2]を数えた。
明治維新後

江戸時代には独立して運営されていた内宮・外宮、豊宮崎文庫・林崎文庫も明治維新の影響を受けることになる。豊宮崎文庫は1868年明治元年)明治1年(1868年)10月14日に廃止され宮崎学校とされた。宮崎学校は11月に一之木の笠井太夫邸に移り山田学校と改称したが12月には豊宮崎に再移転している。山田学校はその後宇治学校と合併、度會縣學校(度会県学校)と改称し岩淵の光明寺に移転するものの明治4年(1871年)1月に経済的理由で廃校となり、旧豊宮崎文庫の蔵書は籍中が預かることになった。

1871年(明治4年)7月、神宮司庁設立を中心とする近代化が明治政府により行なわれ、内宮・外宮の運営が統一されることになった。同時に御師制度は廃止となり御師の大部分が失業することとなった。翌明治5年(1872年)には内宮文殿・外宮神庫などに収蔵されていた両宮合わせて14,447冊の蔵書が神宮司庁に移管された。

1872年(明治5年)に伊勢神宮の教導機関として倭町の常明寺跡に神宮教院が設立され、1876年(明治9年)に旧豊宮崎文庫に移転し、講堂を神宮山田説教所として使用した[3]が、1878年(明治11年)2月14日に失火で門と塀を残し焼失してしまう。幸いにも蔵書などは籍中の三日市太夫家に保管されていたため焼失を免れた。1881年(明治14年)には法人化する案があったが籍中による経営は困難と判断され、協議の上で残った図書などを西田貞助の所有物とすることとなった。

林崎文庫は明治維新直後の明治1年(1868年)に林崎学校となるものの同年11月宇治中之切町に移転すると同時に宇治学校と改称、林崎文庫は廃絶となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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