神奈月
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神無月」あるいは「神奈月昇」とは異なります。
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出典検索?: "神奈月" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年6月)

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本名奥村 聡司(おくむら さとし)
ニックネームものまね破壊王、ものまねバカ
生年月日 (1965-11-03) 1965年11月3日(58歳)
出身地 日本岐阜県土岐市駄知町
血液型B型
身長172cm
言語日本語
方言共通語東濃弁
最終学歴岐阜県立多治見北高等学校
師匠佐々木つとむ
芸風ものまね
事務所太田プロダクション
活動時期1987年 -
現在の代表番組ものまねグランプリ
スタイルプラス
スイッチ!
ものまね王座決定戦
過去の代表番組ヒミツのちからんど
ものまねバトル
他の活動レポーター
配偶者既婚
公式サイト ⇒公式サイト 公式プロフィール
神奈月オフィシャルブログ
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YouTube
チャンネル

神奈月のカンチャンネル

活動期間2020年6月30日 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数10.4万人
総再生回数18.4万回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-04-05-00002022年4月5日時点。
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神奈月(かんなづき、1965年(昭和40年)11月3日 - )は、日本ものまねタレントである。本名、奥村 聡司(おくむら さとし)。「神無月」の表記は誤り。岐阜県土岐市駄知町出身。太田プロダクション所属。
来歴

小学校4?5年生のころ、デビュー当時の長州力(当時は本名の吉田光雄名義)の仕草を兄に披露したのが初めてのものまねであるという。あのねのねが司会を務めた『発表!日本ものまね大賞』などの視聴者参加型のものまね番組や、素人からものまねで有名になった竹中直人小堺一機らの活躍を観て、さらにものまねの面白さに目覚めていった[1]

岐阜県立多治見北高等学校在学時には、文化祭などで教師や芸能人のものまねを披露しており、生徒から人気があった。5時SATマガジンの「ローカルスターベストテン」コーナーに連続でランクインし、第1位になったこともあった。

高校卒業後に上京し、池袋のショーパブ@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「スター誕生」にてものまねの仕事を始める[要出典]。当初はコロッケのパロディのような芸風で物まねをしていた。この店ではお笑いトリオの松竹梅がコントライブを開催しており、リーダーの松稔(まつみのる)に「芸能界に入りたい」と相談して、ネタの作り方やものまねのアドバイスを受けていた。『ものまねバトル』出演時から使い始める芸名「神奈月」の名付け親も松である(エピソード節も参照)。

ショーパブでの活動と並行して、渡辺正行が主催する「ラ・ママ新人コント大会」にも参加し、芸の腕を磨いた。渡辺からは「夜の仕事のトークを、いかに芸人っぽくするかが大事」「ものまねを半分、あとの半分はトークやギャグで笑わせられれば、もっとものまねが活きてくる」と、現在の芸風につながるアドバイスを受け、ラ・ママではトップバッターとして盛り上げ役を務めるようになった[1]

1987年にデビュー。「師匠がないのでは仕事がとれぬから」といわれ関東の形態模写のベテランであった佐々木つとむに師事したが、同年9月、佐々木は愛人関係にあった女性に殺害される(加害者も2日後に自殺)という形で師匠を突然失うことになった。佐々木没後は、芸能事務所に属さずフリーとして活動し、マネージメントも自分で行っていたが、ギャラの安さや、仕事が入っても安易にキャンセルされてしまうという不安定さから人間不信になってしまった。2000年より太田プロに所属している[2]

ものまねバトル』には1995年春の第2回から毎回出演していた。出演当初は、番組側から長嶋茂雄のものまねを求められ[3]、視聴者にも「長嶋監督のものまねの人」のイメージが根付き、仕事が増え始めた[2]。しかし一方では、同じものまねで飽きられないかという不安や、プリティ長嶋などと比較しての葛藤もあったという。その後、2000年の放送で萩原流行のものまねを披露したところ絶賛され、また2001年に長嶋が監督退任したこともあって、長嶋のものまねから解放された。以降は、それまで深夜番組で披露していた武藤敬司などの実験的なものまねもゴールデンタイムで披露できるようになった[3]。さらに石橋貴明SMAPなどに気に入られ『うたばん』への出演機会が多くなるなど、テレビ出演なども増え知名度を上げた。なお、『ものまねバトル』終了後の2009年5月からは、後番組である『ものまねグランプリ』に出演を続けている。
人物

身長172cm 体重82kg。血液型はB型。

既婚で、妻はエステ会社を経営している。

アスリートやビジュアル系のものまねを得意分野とするが、役者や歌手アニメキャラまでレパートリーは幅広い。どちらかというと形態模写寄りで、さらに本人よりもしぐさや特徴を誇張して演じることで、「似ている・似ていない」よりも、笑いに比重を置いている。女性子役をまねるネタも多い。
エピソード

同じ土岐市出身である近藤サトと出身高校は同一であるが、3年離れていたため同時に在籍はしていない。酒井敏也は同じ駄知町・中学の先輩である。

プロ野球読売ジャイアンツのファンである。周囲は中日ドラゴンズファンが多かったが、少年野球の監督が巨人ファンであったことが理由で巨人ファンになった[4]

「神奈月」の芸名は松稔(元・松竹梅)が名付け親である。『ものまねバトル』に出演が決まった神奈月が、急遽芸名を付けなければと松に相談した。その際、名字は三文字にしようということになり、松が「ボンちゃん(神奈月のあだ名)、出身は?」と聞くと「岐阜です」、「生まれ月は?」「神無月です」と答え、候補に挙がった「五十嵐」「長良川」「神無月」の三つのうち本人の希望で「神無月」に決まった。しかし、彼の生まれ月は「神無月」の10月ではなく、「霜月」の11月だった[注 1]。制作局の日本テレビには「神無月」で提出したが、生まれ月とは異なるため「無」を「奈」に変えて「神奈月」に決定した。

2006年10月に公開された映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』に本人役で出演している。2011年11月に放送されたドラマ『ここが噂のエル・パラシオ』第8話でも本人役で出演した。

発掘!あるある大事典II』が終了するきっかけとなった、納豆ダイエットの回に出演していた。納豆ダイエットに挑み2週間で3.1kg減量しているが、これは納豆の成分のためではなく納豆をご飯にかけず食事前に食べることにより普段の7 - 8分目で食事を済ませるようにしていたことが原因とされる。データ捏造問題が発覚し、番組は翌々週までに打ち切りとなっている。

第7回『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』では、圧倒的な歌唱力で決勝まで進出したが、増田英彦に敗れ優勝を逃している。

Yahoo! 動画(現・GYAO!)で配信されている『NO KEIRIN, NO LIFE』では、取材した選手がいずれもその特集の開催で優勝を果たしていることから、「競輪界のあげちん」と呼ばれている[注 2]

日産車好きで「日産・ライダー」のブラックを所有している。その前に所有していたのは日産・エルグランドであった。このことが縁で2008年11月1日に大磯ロングビーチにて開催されたオーテックジャパン主催の「AUTECH OWNERS GROUP 湘南里帰りミーティング2008」にゲストとして出演、持ちネタである武藤敬司や萩原流行などのものまねを披露した。

地元番組『スタイルプラス』に出演する時のテロップは奥村聡司(神奈月)と本名も表示され、共演者から「奥村さん」と呼ばれている。また、モノマネ時の格好をせずに素の姿で出演しているが、当番組のロケや生中継ではなじみのあるモノマネを披露している。

妻とは神奈月がショーパブに勤務していた頃からの付き合いで、神奈月が今ほど売れていなかった時期も、妻がエステティシャンとしての収入で神奈月を支え続けていたという。愛妻家としても知られている。『私の何がイケないの?』では、2015年3月9日放送分の企画で、妻が病気になったという嘘のメールを神奈月に送ったところ、神奈月が予定していた食事会を早く切り上げ、妻のために栄養剤などを買って帰宅し、出演者を感心させた。

連続テレビ小説半分、青い。』では、2018年8月4日の放送分にて少年野球の監督として出演した。ワンシーンのみの登場だったが、同作品が岐阜県を舞台にしており、神奈月が流暢な岐阜弁で演じたことから、ツイッターのトレンドに上がるなど話題となった[5]
ものまねの評価
武藤敬司のものまね

武藤敬司のものまねをすることを初めて意識したのは、長州力馳浩に次ぐプロレスラーものまねを模索しながら無精ひげを生やしていた頃、野上彰に「あれ?なんか武藤さんに雰囲気がちょっと似てますね。やったほうがいいじゃないですか」とアドバイスされた時だった。しかし、当時の武藤はカッコ良さがかたまった正統派のベビーフェイスであり、笑いにつなげられる要素が見当たらなかったためその時は断念した[6]。武藤のものまねをやろうと決心したきっかけは、本人のスキンヘッド姿を見たことだった。「これはパーティーグッズ屋でスキンヘッドのカツラを買って、黒いタイツを穿けばものまねできるんじゃないの?」と思い実行、ライブや舞台から武藤のものまねを披露し始めた。最初にお墨付きをもらったのは同郷の橋本真也からである。深夜番組で武藤のものまねを見た橋本に「いやー、武藤ちゃんのものまねはめちゃくちゃ面白いよ。絶対に似てるからやり続けたほうがいいよ」と称賛されたことにより、「これは間違いないんじゃないか」と自信になったという[7]。神奈月自身は自分を代表するほどのものまねになるとは思っておらず、実際にテレビでウケるようになるまで10年近く掛かった[8]が、それでもやり続けたことで現在では神奈月のものまねの代名詞になった。武藤本人はもちろん、蝶野正洋からも「本物そっくり」とお墨付きを得ており、武藤のものまねは闘魂三銃士全員からお墨付きを得たことになる。なお、武藤がスキンヘッドを初めて披露したのは2000年の大みそかであるため、武藤のものまねを始めたのは21世紀に入ってからであり、20世紀中に武藤のものまねを披露したことはない。

武藤と交流を持って以降は、本人とともに握手会イベントなどに参加することもある。武藤のものまねをする時は、武藤の口癖「差し当たって、」を連発する。なお、萩原流行が神奈月と武藤のモノマネをしたことがあり、これを武藤本人が見ていたため、武藤が萩原のモノマネを披露している。

2006年3月21日には全日本プロレスのファン感謝デー興行で、武藤に扮して本物の武藤とタッグを結成。小島聡イジリー岡田組(イジリーは三沢光晴に扮して登場)と、本物のプロレスの試合を行った。さらに同年12月15日のファン感謝デー興行では「F-1タッグ選手権(Fはフェイクの頭文字)」なる王座を賭けて再び武藤と「二人とも武藤」のタッグを組み、天山広吉原口あきまさ組(原口は蝶野正洋に扮して登場)と対戦し勝利、同王座の初代王者となった。以降もF-1タッグには2012年までレギュラー参戦し[注 3]、当時の全日本の感謝祭興行では欠かせない人物となっていた。

2013年に武藤が全日本を離脱後に旗揚げしたWRESTLE-1では、9月8日のオープニングセレモニーにて武藤のものまねをしながら挨拶を行った。


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