神奈川県立秦野高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度21分45.1秒 東経139度15分27秒 / 北緯35.362528度 東経139.25750度 / 35.362528; 139.25750
神奈川県立秦野高等学校(かながわけんりつはだのこうとうがっこう)は、旧制神奈川県立秦野中学校を前身とする神奈川県秦野市下大槻に所在する公立の高等学校。過去には県の学力向上進学重点校の一つに選ばれており、現在はICT利活用授業研究推進校の指定を受けている[2]。 同校が公式に草創年とするのは同校の前身である三郡共立学校創立年である1886年(明治19年)であり、これをもって同校は現存する県立高等学校としては、最古の歴史を持つとされる[3]。だが源流をたどれば同校の歴史は以下のようにより古くまでさかのぼることができる。 1872年(明治5年)4月の元小田原藩藩校、県学校文武館の閉鎖を契機とする同年4月の共同学校の創立、1874年(明治7年)11月の同校の廃止とそれに伴う小田原師範学校への改称、1876年(明治9年)6月30日の同校内の中等科設置、1879年(明治12年)5月24日の横浜師範学校への統合による小田原師範学校の廃止、1879年(明治12年)10月の足柄上郡、足柄下郡、大住郡、淘綾郡、津久井郡、愛甲郡による六郡共立小田原中学校の創立と旧師範学校施設の引き継ぎ、1880年(明治13年)2月の津久井郡脱退による五郡共立小田原中学校への改称、同校の大住郡への移転問題に起因する1884年(明治17年)7月の同校の廃校、以上の経緯により1886年(明治19年)5月、大住郡、淘綾郡、足柄上郡が同校を大住郡金目村へ誘致することによって三郡共立学校が創立された。 そしてその後の経緯は以下である。1896年(明治29年)4月の大住郡、淘綾郡合併(中郡となる)による二郡共立学校への改称、1898年(明治31年)4月、足柄上郡脱退による中郡共立学校への改称[4]、1900年(明治33年)3月の郡制改正施行による中郡立中郡学校への改称、国の実業教育政策に応じる形での1902年(明治35年)4月の中郡立中郡農業学校の開校、1908年(明治41年)4月、同校の平塚町達上西畑向原移転による神奈川県立農業学校(神奈川県立平塚農業高等学校の前身)の開校、なおも存続中の郡立農業学校を中郡有志が引き継ぐための、1909年(明治42年)3月の私立育英学校の創立、1923年(大正12年)4月の郡制廃止と同年9月の関東大震災による校舎全壊に起因する経営困難に対処するための1924年(大正13年)4月の大根村、土沢村、金目村、旭村、金田村、秦野町の六か町村による中郡六カ町村組合立育英学校の創立、同年12月の組合への参加町村増加による中郡二十六カ町村組合立育英学校への改称、1926年(大正15年)3月4日、「奈珂中学校設立認可」が下ったことによる、同年4月の中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校の創立、1929年(昭和4年)の神奈川県奈珂中学校への改称、以上の経緯を経て同校は1935年(昭和10年)11月1日に県へ移管され、神奈川県立秦野中学校が創立された。
設置学科
普通科
歴史