神国
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この項目では、日本における思想について説明しています。

古代伊勢神宮領については「神郡」をご覧ください。

キリスト教などにおける宗教概念については「天国」をご覧ください。

書籍については「神の国 (アウグスティヌス)」をご覧ください。

神国(しんこく)とは、「」を意味する語で、日本では「神である天皇が治める国」、「神明に加護された国」あるいは「神々の宿る国」という意味合いの語である。神州(しんしゅう)ともいう。
概説

神国とは、天照大神の末裔である天皇現人神として君臨し、万世一系と天照大神の神勅のもとに永久に統治を行い、これを支え続けてきた皇室と、これに臣属した諸神の末裔である日本国民との緊密な結合と全ての政治は神事をもって第一とする理念によって、の加護が永遠に約束される国家を指している。

本来は農業国が持つ農耕儀礼に基づく信仰に由来するものであり、日本の国家と国土はこの神国思想(しんこくしそう)に基づいて神々によって作られて守られてきたものであるとされてきたが、後に選民意識と結びつき、更には国粋主義排外主義覇権主義軍国主義的な思想へと転化していった。特に太平洋戦争敗北までは、対外戦争毎に強調され、国家神道を支えた[1]
時代的変遷
平安時代以前

「神国」という言葉の初出は神功皇后のいわゆる「三韓征伐」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て「音に聞く日本の船、あれは神国の強者だ」と抵抗せず降伏したという、『日本書紀』の記事である[注釈 1]。これが後に対外的危機の際には必ず引用されて神国思想を高揚させる一因となったと言われている。仏教伝来直後は、中臣氏物部氏など神道を崇拝する人々によって唱えられ、蕃神への信奉が災いをもたらすとして仏教排斥を図り、蘇我氏を中心とする崇仏派と対立する。しかし、神仏習合の普及以後、神道と仏教との対立は一時的に緩和していった。平安時代以後、律令政治の発展による儀礼の深化とともに『日本三代実録』などに見られるようになり、源義経の「腰越状」にもその行が見える。

一説に、各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていたとされるが、大和朝廷大化の改新をへて、天皇を中心とした中央集権国家へと移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である太陽神・天照大神と天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーが確立されたとされ、このような体系を基にしたのが古代の神国思想であるという意見がある。
新羅との関係「新羅」および「新羅の入寇」を参照

新羅と日本との外交関係において、「神国」思想が形成されたとする見方もある。

弘仁2年(811年)12月の新羅賊徒、また貞観11年(869年)の貞観の入寇を契機に、日本政府は国防体制を強化する。日本政府は、囚人を要所に防人として配備することを計画したり[2]、沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。

貞観12年(870年)2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[2] する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[3]。これらの国防法令は『延喜格』に収められ、以後の外交の先例となった[3]

同時に、伊勢神宮石清水八幡宮香椎神功陵などに奉幣および告文をささげ、


わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや
(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)

と訴えた[3][誰が?]。こうして新羅を敵視する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる[3]

貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する[4]

また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている[5]。こうして対新羅関係が悪化すると、神国思想とともに、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想が形成された[5]

なお貞観の入寇の三年前の貞観8年(866年)には応天門の変が起こっており、こうした日本国内の政権抗争と同時期に起こった貞観の入寇などの対外的緊張の中で、新羅排斥傾向が生み出されたとされる[6]
王朝国家体制以降

10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族寺社荘園を拡大し始めた。有力な寺社は、自分たちが祭る神々こそ日本の神の頂点であると宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としていった。その結果、天皇家を中心とした神々及び神社のヒエラルキーは衰退していった。また、平安時代前期からこの時期には、神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれた。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした古代的神国思想は、本地垂迹説を基にした中世的神国思想へと移行・変化していった。
鎌倉時代

平安時代末期より鎌倉時代にかけて武士及び末法思想鎌倉新仏教の広がりによって旧体制を否定する思想が広がり、実社会と乖離した儀礼中心の政治が打ち続く戦乱によって存亡の危機に立たされると貴族社会を中心に旧体制の由来を神国思想に求める考え方が出現した。特に法然の登場により、阿弥陀仏のみを崇めて他の神仏を軽く扱う浄土教の拡大が宗教界に大きな衝撃を与え、各宗派は浄土教批判に追われた。そこでも神国思想が利用され、比叡山延暦寺が浄土教を糾弾して書いた『延暦寺奏状』では「吾朝者神国也」とある。

鎌倉新仏教側も日本の仏教は神々の加護によって成立しているとする本地垂迹説を自然と受け入れた宗派もあり、日蓮大曼荼羅八幡大菩薩天照大神を加えている。虎関師錬の『元亨釈書』の「大乗仏教は日本において完成した」という主張はその典型である。

更にこれに一大変革を与えた事件は、による2度にわたる元寇である。この時の嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに行われた異敵調伏の祈祷と成果と喧伝され、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させる事となった。
南北朝・室町時代

南朝北畠親房は、『神皇正統記』において、「大日本は神国である」とし、親房は天照大神の正統な末裔である天皇によって日本という国家が維持されているという主張を簡潔に述べて、後世に影響を与えた。


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