神和住 純(かみわずみ じゅん, 1947年10月1日 - )日本のプロテニス選手・指導者である。法政大学スポーツ健康科学部教授。
日本人戦後初のトーナメントプロ選手。1980年から国内7年連続賞金王。1997年から2004年までデビスカップ代表監督。1973年全米オープンで3回戦に進出。これは錦織圭が2008年に進出するまで日本人男子最後の全米3回戦進出であった。 石川県鹿島郡中能登町(旧鹿島町)出身、東京育ち。全日本チャンピオンであった両親[1]の影響から、中学1年でソフトテニス(軟式庭球)を始める。法政大学第二高校進学後硬式に転向し、1965年全国高等学校総合体育大会テニス競技大会完全優勝と全日本ジュニアテニス選手権単複優勝を飾る。世界ジュニアテニス選手権
来歴・人物
法政大学ではインカレシングルス3連勝を果たし、1967年東京ユニバーシアードシングルス銀メダル、1970年トリノユニバーシアードではダブルス金メダルを獲得する。1965年にはデビスカップ初選出。1968年の全豪選手権でグランドスラム初出場。卒業後、住友軽金属工業(現・UACJ)に入社。1971年から全日本テニス選手権単複3連勝を飾る。また、同年の全仏オープンのダブルスでは坂井利郎とのペアで4回戦(ベスト16)に進出。
1973年、日本人では戦後初のトーナメントプロ第1号となる。この年WCT年間最多34大会出場、全米オープンのシングルスで3回戦進出。1974年、当時世界トップクラスのスタン・スミスを全仏オープンと全米プロテニス選手権で2度破る。1980年に日本もプロオープン化承認されると、国内の7大会のシングルスに優勝し、7年連続賞金王となる。1983年の「グンゼワールドテニス」(1974年(昭和49年)から1993年(平成5年)まで日本で行われたエキシビション大会)では、ロイ・エマーソン、ロッド・レーバー、ジョン・ニューカムといった往年の世界のトップ選手を次々に破って優勝した。
1986年の全日本選手権を最後に現役引退。ATP世界ランキング最高78位。デ杯37戦出場は日本代表選手史上最多。引退後は、スポーツキャスターやタレント活動、解説者などを経て、1995年に鹿屋体育大学教授、1999年には母校法政大学教授となる。1997年よりデ杯日本代表監督に就任。日本テニス協会理事も務める。また、テニス教室や講演会活動も行っている。
「神和住」姓は日本で一軒しかなく、神和住の五代前の先祖が居住地を「神和住」と名付け、現在も能登町には「神和住」という集落が存在する。
テレビ出演
愛のトロフィー(日本テレビ、1978年10月 - 1979年1月)
ベストテニス(NHK教育テレビ、1983年10月 - 1984年11月※講師として出演)
独占!!スポーツ情報(日本テレビ、1987年4月 - 1989年3月※メイン司会者として出演)
オールスター感謝祭
CM出演
シャープ(1980年)マイビデオV9U・トルトル
セイコー(1982年)Let's start82
関連項目
錦織圭 全米オープンで1973年の自身以来の3回戦進出を果たしている。
石川県鳳珠郡能登町 町内に『神和住』という集落があり、神和住の祖先が住んでいたところという縁と、神和住の父・正らにテニスを教えた井東節太郎 (元実業団の選手という経歴を持っていた教諭) を記念し、旧・能都町では『テニスの町』を宣言し、町村合併後の能登町においても継承されている。1999年から同町内で自らの名前を冠した「エンジョイテニス大会」を開催し、町内のテニスミュージアムに多数の資料を寄付した。2009年には『能登ふるさと大使』に任命されている。[2][3][4]
参考文献
日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(86ページ・177ページ)
脚注^ 父の神和住正(1914-1998)は『軟式庭球』(旺文社、1967)という指導書も残している。 ⇒Webcat Plus「神和住 正」 国立情報学研究所, 2014年1月31日
^ 神和住純、元デ杯プレーヤーのルーツ、能登を訪ねる。「テニスの町、能登」訪問記 Sports@nifty, 2006年11月05日
^ ⇒10月 週末は 25日(日)ふるさと納税受領式・ふるさと大使任命式 藤波運動公園となっています noto-tourism.com, 2009年10月20日
^ ⇒「能都町ふるさと大使」 能都町ホームページ, 2014年1月31日
外部リンク
神和住純 - ATPツアーのプロフィール (英語)
神和住純 - デビスカップのプロフィール (英語)
神和住純 - 国際テニス連盟
表
話
編
歴
全日本テニス選手権男子シングルス優勝者
20・30年代
(1922年)福田雅之助
(1923年)原田武一
(1924年・25年)俵積雄
(1926年)太田芳郎
(1927年)安部民雄
(1928年)牧野元
(1929年)原田武一
(1930年)佐藤次郎
(1931年)桑原孝夫
(1932年)布井良助
(1933年)西村秀雄
(1934年-36年)山岸二郎
(1937年)ゴットフリート・フォン・クラム
(1938年)山岸二郎
(1939年)フラニョ・プンチェツ
40・50年代
(1940年)小寺治男
1941年 大会開催なし
(1942年)鷲見保
1943年-45年 大会開催なし
(1946年)藤倉五郎
(1947年・48年)中野文照
(1949年-52年)隈丸次郎
(1953年)加茂公成
(1954年・55年)宮城淳
(1956年)加茂公成
(1957年)宮城淳
(1958年)ハミルトン・リチャードソン
(1959年)バリー・マッケイ
60・70年代
(1960年)宮城淳
(1961年)石黒修
(1962年)ウルフ・シュミット
(1963年)石黒修
(1964年)渡辺康二
(1965年)石黒修