神功皇后
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神功皇后
「神功皇后」『慶応頃錦絵帖』
一猛斎芳虎
第14代天皇后
皇后仲哀天皇2年1月11日

誕生成務天皇40年
崩御神功皇后69年4月17日

諱気長足姫(おきながたらしひめ)
諡号気長足姫尊、神功皇后
氏族皇族(開化天皇5世孫)
父親息長宿禰王
母親葛城高?媛
配偶者仲哀天皇
子女誉田別尊(応神天皇
身位皇后
地位摂政(神功元年10月2日 - 神功69年4月17日
皇居磐余若桜宮
異表記息長帯比売命(古事記)
大帯比売命(古事記)
大足姫命(続日本後紀)
大帯日姫(日本三代実録)
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神功皇后(じんぐうこうごう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:神󠄀功皇后、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇仲哀天皇皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。なお、実在したとすれば後述の広開土王碑文三国史記七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合して4世紀後半頃の可能性があるが、実在の可能性が高く『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」にあらわれる卑弥呼の生涯とは約120年の差がある。
略歴

父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天之日矛の子孫・葛城高?媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫[1]がいる。

仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。『古事記』分注の没年干支では仲哀天皇の崩御は西暦362年に比定される。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。

翌年、仲哀天皇の嫡男、次男である?坂皇子忍熊皇子との滋賀付近での戦いで勝利し、そのまま都に凱旋した。この勝利により神功皇后は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。

明治時代までは一部史書(『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』)で第15代天皇、初の女帝女性天皇)とされていたが[2]、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された[3]。摂政69年目に崩御。


気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) - 『日本書紀』、和風
諡号

息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) - 『古事記

大帯比売命(おおたらしひめのみこと) - 『播磨風土記

大足姫命皇后 - 『続日本後紀

大帯日姫 - 『日本三代実録

漢風諡号である「神功皇后」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
熊襲征伐歌川国芳画『神功皇后』

仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月、天皇が紀伊国のコ勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。


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