神倉神社
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神倉神社

御神体の巨岩・ゴトビキ岩と拝殿
所在地和歌山県新宮市神倉1-13-8
位置北緯33度43分20.1秒
東経135度58分58.2秒座標: 北緯33度43分20.1秒 東経135度58分58.2秒
主祭神天照大神高倉下命
社格等村社
創建128年景行天皇58年)
例祭2月6日(御燈祭
地図神倉神社
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神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市神社熊野三山の一山である熊野速玉大社摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
目次

1 磐座信仰の社

1.1 歴史


2 文化財

2.1 神倉神社境内

2.2 神倉山の石段

2.3 有形民俗文化財


3 御燈祭

4 交通機関

5 注

6 文献

7 関連項目

8 外部リンク

磐座信仰の社 参道麓の鳥居

神倉神社は、熊野速玉大社の摂社である。新宮市中心市街地北西部にある千穂ヶ峯の支ピーク、神倉山(かんのくらやま、かみくらさん、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている[1]。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている[1]

神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという[1][2]。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている[1]
歴史

熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり[3]、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された[2]。平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する。『平家物語』巻一〇の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427年)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる[2]

鎌倉時代の建長3年(1251年)2月14日には火災により焼失したが、執権の北条時頼より助成を与えられて再建された。中世の神倉神社は、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営に当たり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にあたった[2]南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した。享禄4年(1531年)付の古記録「神倉再造由緒」によると、神倉山の神社仏閣は持統天皇の時代に裸行上人により建立されたが、その後荒廃したため、延徳元年(1489年)に妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521年-1528年)から享禄4年まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げた(『妙心寺文書』)[4]戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588年)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失した。翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9か国に勧進に赴いている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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