神よ、皇帝フランツを守り給え
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Gott erhalte Franz den Kaiser
和訳例:神よ、皇帝フランツを守り給え
ハイドンによる皇帝讃歌の自筆譜

国歌の対象
神聖ローマ帝国
オーストリア帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
別名Osterreichische Kaiserhymne
(オーストリア皇帝讃歌)Gott erhalte, Gott beschutze
(神よ保ちたまえ、神よ守りたまえ)
作詞ローレンツ・レオポルト・ハシュカ(ドイツ語版)
ヨーゼフ・クリスティアン・フォン・ゼドリッツ(ドイツ語版)
ヨハン・ガブリエル・ザイドル
作曲フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
採用時期1804年

試聴
『神よ、皇帝フランツを守り給え』 noicon
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『神よ、皇帝フランツを守り給え』(かみよ、こうていフランツをまもりたまえ、ドイツ語: Gott erhalte Franz den Kaiser)あるいは『オーストリア皇帝讃歌』(オーストリアこうていさんか、ドイツ語: Osterreichische Kaiserhymne)は、神聖ローマ帝国オーストリア帝国(のちオーストリア=ハンガリー帝国)の国歌フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作曲による。ハイドンによるメロディーはその後、数多くの讃美歌クラシック音楽の中で用いられ、またドイツの国歌『ドイツの歌』として転用されている。
作曲に至る過程

作曲の経緯には、2つの説がある。いずれにせよ、イングランドの『神よ国王を護り賜え』の影響を強く受けて成立したことは確実である[1]
第1の説フランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ(ドイツ語版)伯爵フランツ・ヨーゼフ・ハイドンフランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ(ドイツ語版)伯爵が作曲全体のイニシアティブをとったとする説。ゾーラウ伯爵の1820年2月28日付の書状の内容に基づく[1]

フランス革命戦争の最中である1796年の終わり、神聖ローマ帝国(オーストリア)はナポレオン軍に脅かされるなど政治的に不安定な情勢下にあった。そのため皇帝のもとでの国民の団結が強く求められていたが、時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は優柔不断かつ悲観的な性格で、それほど国民に愛されてはいなかった[2]

そこでニーダーエスターライヒ州政府長官のフランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ(ドイツ語版)伯爵は、国民の団結を促す契機となるものを作らんと、詩人のローレンツ・レオポルト・ハシュカ(ドイツ語版)に、イングランドの『神よ国王を護り賜え』を手本として、翌年の皇帝の誕生日(=1797年2月12日)に演奏する歌の歌詞を書くように依頼した[2]。1796年10月11日、ハシュカは完成した歌詞を、ゾーラウ伯爵に送った[2]

ゾーラウ伯爵から作曲を依頼されたハイドンも、1791年から92年、また1794年から95年にかけてロンドンに赴いた時に『神よ国王を護り賜え』を耳にしており、それを大いに意識して作曲を行った[3]。(ハイドンの英国訪問については「ロンドン交響曲」も参照)
第2の説ウィーンの宮廷図書館に勤めていたアントン・フランツ・シュミット(ドイツ語版)という人物の記した書物に基づく[1]

『神よ国王を護り賜え』を聴いたハイドンが、ウィーンの音楽愛好家であるゴットフリート・ヴァン・スウィーテン男爵に、オーストリアにも同様の国歌があればと述べた[1]。スウィーテンがゾーラウ伯爵にこれを伝え、ゾーラウ伯爵がハシュカに作詞を依頼した[1]
作曲1816年ごろの楽譜。左上に「Volkslied.」とある.mw-parser-output .listen .side-box-text{line-height:1.1em}.mw-parser-output .listen-plain{border:none;background:transparent}.mw-parser-output .listen-embedded{width:100%;margin:0;border-width:1px 0 0 0;background:transparent}.mw-parser-output .listen-header{padding:2px}.mw-parser-output .listen-embedded .listen-header{padding:2px 0}.mw-parser-output .listen-file-header{padding:4px 0}.mw-parser-output .listen .description{padding-top:2px}.mw-parser-output .listen .mw-tmh-player{max-width:100%}@media(max-width:719px){.mw-parser-output .listen{clear:both}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .listen:not(.listen-noimage){width:320px}.mw-parser-output .listen-left{overflow:visible;float:left}.mw-parser-output .listen-center{float:none;margin-left:auto;margin-right:auto}}クロアチア民謡「悲しき花嫁(Zalostna zarucnice)」ogg formatこの音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

オーケストラ譜には、ハイドン自身の手で「Volck's Lied」という注記があり、その意味は「国民の歌」とも「民謡」ともとれる[1]。これに関連し、作曲時にハイドンが参考にした可能性がある民謡がある。クロアチア民謡「悲しき花嫁(Zalostna zarucnice)」で、冒頭部分の音符とリズムの輪郭が完全に一致する[1]H.C.ロビンス・ランドンは、ハイドンが1761年以降仕えていたエステルハージ家の居城があったエステルハーザ付近でこの民謡が歌われていたと指摘している[4]

カトリックの『ローマ・ミサ典礼書(英語版)』に含まれる《天にましますわれらの父よ》とも、冒頭の旋律に含まれる音が一致するなど、類似が指摘されている[4]
初演

1797年1月28日にゾーラウ伯爵がハイドンの浄書譜に出版を許可しているため、それまでには作曲が完了していたと考えられる[3]。印刷は大急ぎで行われ、1月30日には初版の印刷が完了したらしい[3]。そして皇帝フランツ2世の29歳の誕生日である1797年2月12日、ウィーンのブルク劇場において、フランツ2世臨席のもとでオーケストラ伴奏によって初演された[3]。初演後まもなく、ハイドンと交流があったチャールズ・バーニーが、歌詞を英訳してイングランドで紹介し、好評を博した[5]
歌詞


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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