神の像と肖(かみのぞうとしょう)とは、正教会の「人間とは『神のイコン(像)』である」とする人間観の基礎となっている重要な概念。旧約聖書の創世記1章26節・27節において、神は自身の「像」と「肖」に従って人を創造したとされる記述があることを基にする[1]。
西方教会の原罪論・全的堕落説と対比され、正教会と西方教会の間の重要な相違点となっている。
像…ギリシア語: ε?κ?ν[2], ロシア語: образ[3], 英語: image
肖…ギリシア語: ?μο?ωσι?[4], ロシア語: подобие[5], 英語: likeness
「神のかたち」「神の似姿」等と訳されることもあるが[6]、日本正教会訳聖書では同種の語彙につき「像」と「肖」の訳語を用いており[7]、他の日本正教会関連の出版物でもこの訳語が用いられる事が多い[8][9]。「共働」も参照
目次
1 像・肖の概念
1.1 概要
1.2 詳細
1.3 聖書箇所
1.4 聖師父による説明
1.5 奉神礼への反映
1.6 神成
2 救い
3 他教派との違い・比較
3.1 正教会における「神の像」・西方教会の全的堕落説
3.2 日本正教会訳聖書以外の日本語訳聖書
4 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
像・肖の概念
概要「神曰(い)へリ、人を我等の像(ぞう)と、我等の肖(しょう)とに從(したが)ひて造るべし」(1章26節)「神乃(すなはち)己の像に從ひて人を造り、神の像に從ひて之(これ)を造れり、之を男女に造れり。」(1章27節) ? 日本正教会訳聖書、三歌斎経における創世記部分訳
神が言を以て、「像」と「肖」に従って人(男女)を造ったことが、上の創世記1章26節・27節に記されている。
「神の像」(ギリシア語: ε?κ?ν)は「神に近づくための力や可能性や出発点」を、「神の肖」(ギリシア語: ?μο?ωσι?)は「その実現や完成」を意味すると説明される。すなわち、人間は初めから完璧な者としてではなく、成長するものとして創られたとされる[1]。
神の像は堕罪によって破損し、神の肖は堕罪によって失われたが、神の像は破損しつつも消滅せずに残っている。そのため、どんな人間でも神の像(イコン)であり続け、一人ひとりの人間はかけがえのない尊い存在であると正教会では理解される[1]。 創世記1章に示されている、正教における「神」とは、至聖三者(三位一体の神)である。神が「我等」として自らを一人称複数で示しているのは、神の三位を示していると理解される。また「像」がギリシャ語聖書原文(七十人訳聖書)で単数であるのは、神の分かれざる一つの本質を示していると理解される。これらは至聖三者(三位一体の神)が旧約聖書において既に示されている箇所の一つであると正教会では理解される[10]。
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