祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけ の きい、生没年不詳)は、平安時代院政期の日本の女流歌人で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王の女房。女房三十六歌仙の一人。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれており父親は定かではない。母は「岩垣沼の中将」の作者祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄[1]とも夫[2]とも言われている。 母と同じく祐子内親王家に出仕したこと以外は、伝記的情報はほとんど知られていない。歌人としての活動は、永久元年(1113年)「少納言定通歌合」への出詠まで確認されている。 勅撰集歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数歌集名作者名表記歌数 百首歌・歌合名称時期備考 堀河院御時艶書合によめる 中納言俊忠
経歴
作品
後拾遺和歌集一宮紀伊1金葉和歌集一宮紀伊3詞花和歌集一宮紀伊2
千載和歌集新古今和歌集祐子内親王家紀伊2新勅撰和歌集祐子内親王家紀伊1
続後撰和歌集祐子内親王家紀伊5続古今和歌集祐子内親王家紀伊1続拾遺和歌集
新後撰和歌集玉葉和歌集祐子内親王家紀伊4続千載和歌集祐子内親王家紀伊3
続後拾遺和歌集祐子内親王家紀伊4風雅和歌集新千載和歌集祐子内親王家紀伊2
新拾遺和歌集祐子内親王家紀伊1新後拾遺和歌集新続古今和歌集祐子内親王家紀伊
一宮紀伊1
1
祐子内親王名所合康平4年(1061年)「一宮紀伊君」名で出詠し持2
内裏歌合右方後番承暦2年4月30日
(1078年6月12日)「一宮紀伊君」名で出詠し持2
高陽院殿七番和歌合(前関白師実歌合)寛治8年8月10日
(1094年9月22日)「紀伊君」名で行家と番い勝3持2
堀河院艶書合康和4年(1102年)百人一首に選ばれた「音に聞く」の歌を収める
左近権中将俊忠朝臣家歌合長治元年(1104年)「紀伊君」名で尾張君と番い持
堀河百首長治2年(1105年)「紀伊 祐子内親王家、平経方女、紀伊守重経妻、仍号紀伊」
少納言定通歌合永久元年(1113年)
私家集
『一宮紀伊集』藤原定家筆本が伝存している。群書類従本は『祐子内親王家紀伊集』と題されている。
百人一首
72番[3]
人しれぬ思ひありその浦風に なみのよるこそいはまほしけれ
返し 一宮紀伊
音にきくたかしのはまのあた波は かけしや袖のぬれもこそすれ ? 『金葉和歌集』 巻第八 恋歌下
逸話
大久保利通の詠として、
音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり明治時代に高師の浜(現在の浜寺公園付近)の松が薪や材木として伐採されることを嘆いた歌で[4][* 2]、この紀伊の歌の本歌取りである。現在は『惜松碑』と呼ばれる石碑が建てられている。
脚注
注釈^ 紀伊は女房だが、主家の名前に引きずられて、百人一首かるた等の絵では、しばしば几帳や繧繝縁の畳と共に描かれ、内親王並みの「待遇」を受けている。
^ 後に、司馬遼太郎 『翔ぶが如く』 にもこのエピソードが紹介されている。
出典^ 『和歌色葉』
^ 『袋草子』
^ 『金葉和歌集』 巻第八 恋歌下 00500,00501