祈祷
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「祈り」のその他の用法については「祈り (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年3月)
祈りを捧げるマグダラのマリア19世紀アリ・シェフェールによる)

祈り(いのり)とは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。自分の中の神と繋がること。など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。神の定理は各宗教による[1]。祈祷(祈?、きとう)、祈願(きがん)ともいう[2]儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいう。
概要

祈りは、最も基本的な宗教行為民間信仰の一つである。神聖視する対象に何らかの実現を請う行動で、その内容は、対象との意思疎通を図ろうとするものや、病気の回復、または他人の身に良いことが起こるようになど、祈る人の状況や習慣などで多岐にわたる。神に対して自分の考えや思いを表現することは「告白」や「お礼参り」という。

外形的には、祈祷者(祈祷師)の独白ないし語りかけ(呪文聖典や教本の一節などの定型句など)、または黙祷というかたちをとることがある。また、瞑目、平伏、合掌あるいは行進(歩行)などの身体動作、姿勢や踊りなどが伴う場合もある。祈りは、個人また集団で行われ、付帯的に供物などの奉げる(ささげる)ものを添える場合もある。その様式や理念宗教によって、様々に定義されているものの、曖昧な部分もあり、包括的に表現することは難しい。

そして、「教義や教則、またそれらを含めた聖典や教本をもつ宗教」に限らずそれ以前に、世界中の古代文明において発生したシャーマニズム祈祷占い呪術薬草による医療行為・神との交信)や祖霊信仰自然崇拝・精霊崇拝アニミズムの日(太陽)や流れ星に至るまで、対象が漠然としたものに対する感謝などの、意思の表明や表現や現象に対しての活動でも同語が用いられ、一概に祈りというものが特定宗教における価値観念とは別の、より根源的な欲求に基いた人間の活動様式であることも見て取れる。その対象も時と場所や個人の思想によって様々であるが、祈りという活動は、人間の社会において普遍的である。

一神教における神は世界に遍在し、場所の制約を受けないため、一神教の信徒は祈りを捧げるために宗教施設や宗教用具を必要としない。その点、日本人などの場合は目の前に神棚や仏壇、神社仏閣などの対象がないと祈りを捧げることが難しいとされる[3]
宗教と祈りの様式

以下、各宗教における祈りについて述べる。
キリスト教

キリスト教において、祈りは信仰生活の中心をなす宗教行為のひとつである。その形は、賛美、感謝、嘆願、執成し、静聴、悔改と多様であって、これらの組合わせが、一般的に「祈り」と言われる[4]。他教の祈りと根本的に異なるのは、まず神の言葉を聞いて、それに基づいて祈ることが肝心で、単に自分の願いを披露するのではなく、自身の信仰に基づいた決意表明という点である[5]。その意味で、祈りと聖書を読むこととは、クリスチャン生涯では一体的な営みとされる。

祈りは神に、また教派によっては神の母マリアをはじめとする聖人に対して捧げられる。プロテスタント諸教会では、マリアあるいは聖人への祈りを偶像崇拝として排除している。
祈祷の意義

キリスト教における祈祷は、神への賛美を本来的な形とする。祈願・罪の告白等も、究極にはそれによって神の栄光が顕わされることを願うのであり、現世利益は本来的なキリスト教の信仰が追求するものではない。祈りの意義の最大のものは、永遠なる神との人格的な交わりにあるとされる。

また「絶えず祈る」ことがキリスト教では奨励されている[6]天使たちは神への賛美を絶えることなく行っていると信じられている。これが公的な礼拝にしばしば参加すること、私的な祈祷をしばしば行うこととも解され、修道士たちが寝ずの番を交代でしながら24時間祈祷を行う不寝修道院を生むに至った。一方、「祈り」を霊が神に向かうことと解すると、言語化されない祈りという観点が生じる。中世の正教会では、「祈りの文言を理解せずに祈る」「祈りの文言を理解して祈る」「祈りを口にすることをまたず、すべての行為が祈りとなっている状態」の3つの祈りの形が考えられた。第3の状態を「祈らずして祈る」といい、ヘシカズムではこれを重視し、そこに到るの段階として短い祈りを絶えず繰り返す「イイススの祈り」を奨励する。「イイススの祈り」も参照

祈りは信者の意思的・能動的行為である一方、神学的にはすでに神の力を得てその恩寵の元に行われていると考えられる。パウロ書簡には、祈りにおいて言語化されない思いを神の霊がうめきによって表すとの考えが表明されている[7]

祈り、とくに公的な祈りは神への奉仕と考えられているが、一方でキリスト教には「神は人間の奉仕を必要としない」という考えがある。また、ユダヤ教さらにはその発展であるキリスト教では、いったいに、神は人間の隠れた思いをすべて知っているという観念があり、したがって祈りが行われずとも神は人間の思いをすでに知っている。したがって、祈りは本来的に人間の側にとって意義をもつ行為であるとも言えないことはないが、しかし、神は人間が己に立ち返って、神と交わることを喜ぶとされる。かつ祈りによって人間は神に近づき、神との絆さらには共に祈る者としての他の人間との絆を更新することができると考えられている。
形式

クリスチャンの祈りに形式があるとするならば、それは「キリストの御名によって」祈ると言うことである。それは罪ある人が、聖なる神に近づくためには、キリストの十字架上の死を通してのみ可能であるという理解がある。

祈祷の主体に着目すると、集団での公的な礼拝行為(公祈祷)と私的な個人ないし集団での祈祷(私祈祷)に分かれる。祈祷の内容に注目すると、定まった祈祷文をもちいるものと、個人の自由で自発的な祈祷に任せるもの(自由祈祷)がある。伝統的教会は、定まった祈祷文を用いることを奨励し、プロテスタント教会では自由祈祷を奨励する傾向がある。

定まった祈祷文は、各教団・教派ごとに異なる。教派でその内容・文言を精査した上で認可を与え、信者にこれを奨励する。教派を超えて用いられる祈祷文には「主の祈り」、各種の信条がある。伝統的教会は古代から中世初期に起源をもついくつかの祈祷文を共有しているが、東西教会の分裂以降制定され、したがって特定教派にのみ行われる祈祷文も数多い。また同じ祈祷文を用いることがあっても、それを用いる状況・時節等の定めを異にすることもしばしばみられる。定まった祈祷文を収録した本を祈祷書という。

公的な礼拝を典礼奉神礼等と呼ぶ。これはギリシア語ではライトゥルギアと呼ばれ、「人々の仕事」を原義とする。一般に公的な礼拝は、あらかじめ定められた形式・祈祷の文言に則って行われ、しばしば奏楽や歌唱を伴う。ミサ聖体礼儀はこのような典礼の代表的なものである。伝統的教会における典礼には、時刻を決めて行われるものがあり、これを時祷、時課等と称する。時祷の習慣はユダヤ教から受け継がれたもので、修道院で発達し、1日に9回ないし8回の祈祷を行うのを基本の形とする。伝統的教会には、キリスト教本来の祈祷は、このような集団があらかじめ定められた形式での祈祷であるとする見解がある。これに対して、プロテスタントをはじめ、個人の祈祷を重視する立場がある。

祈祷は、声に出して行われることもあれば、黙して行われることもありえる。歌唱を伴うものを「聖歌」「賛美歌」等と呼ぶ。東方教会では、基本的に、すべての祈祷は歌唱を本来の形とする。

他者に神の恩寵が施されることを願う祈りを代求、執成しの祈りという。伝統的教会における聖人への祈願は、基本的に、聖人に神への代求を願う祈りである。プロテスタントは一般には聖人への祈りを否定している。
仏教

仏教では、の力で病気や災難から助けてもらえるように僧侶加持を行なう宗派がある[8]。また、個人的に「願」(がん)を掛ける(願掛け)ということをおこなう[9]


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