祇園祭
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1968年の映画については「祇園祭 (1968年の映画)」をご覧ください。

「祇園会」はこの項目へ転送されています。落語作品については「祇園会 (落語)」をご覧ください。
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祇園祭
Gion Matsuri
前祭山鉾 御池通巡行
(2017年7月17日撮影)
イベントの種類祭り
通称・略称おいで、おかえり
開催時期7月
初回開催869年
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祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
概要

祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。

一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[注釈 1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。

宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。

祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市高山祭埼玉県秩父市秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。

応仁の乱で一度祇園祭が中止されたが、町人によって復活した。
名称

祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源については、祇園精舎の項目を参照。

その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。
歴史狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』(国宝米沢市上杉博物館)に描かれた祇園会の様子(右隻第三扇)。手前右は船鉾、左は岩戸山。以下手前から奥へ鶏鉾、白楽天山、函谷鉾。右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)[1]
祇園御霊会の起源

疫病の流行により朝廷は863年貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で[2]、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた[3]。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国のの数を表す66本のを卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。

御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。
山鉾巡行の成立

祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。


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