祁山の戦い
戦争:祁山の戦い
年月日:231年2月?6月
場所:天水郡南西方面
結果:蜀軍は会戦に勝利するも長雨で兵糧が続かず撤退。
交戦勢力
魏蜀漢
指導者・指揮官
司馬懿
張? †
郭淮
費曜
戴陵
牽招
魏平
賈嗣
祁山の戦い(きざんのたたかい)は、中国三国時代の231年2月?6月に、蜀漢と魏の間で起きた祁山(現在の甘粛省南東部の山)周辺での戦い。蜀漢の諸葛亮が侵攻を行い、しばしば勝利を得るが兵糧不足により撤退する。 魏は諸葛亮の侵攻を街亭の戦い・陳倉の戦いにおいて退けたが、229年には諸葛亮によって武都郡・陰平郡を奪われていた。それに反抗すべく230年に大挙して魏軍は蜀に侵攻するが大雨により失敗した。また、蜀軍は魏延・呉懿を涼州に派遣して郭淮らを撃破するなど戦果を得ていた。この機会に乗じ蜀軍は翌年231年春2月、大規模に軍を起こし、四度目の北伐を行う。この戦いでは、食糧輸送の事情を解消するために、木牛という新たな輸送車が使用された。 一方、諸葛亮と対峙していた魏の大司馬であった曹真は重病で療養中であり、231年春3月に逝去する。これに代わり、大将軍の司馬懿が総司令官として諸葛亮と対峙することになる。 諸葛亮は祁山に出撃するとともに、魏の北方でしばしば魏と対峙していた鮮卑族の軻比能に使者を送り、もとの北地郡(現在の甘粛省東部と寧夏回族自治区および陝西省北西部にまたがる地域)石城県にまで進出し、諸葛亮に呼応させた[1]。曹叡は荊州より司馬懿を詔勅で招き寄せて長安に駐留させ、張?・郭淮・費曜・戴陵らを指揮下に置かせた[2]。また、詔勅を下して牽招に軻比能討伐を命じた[3]。 諸葛亮が祁山で魏軍の魏平・賈嗣 司馬懿は諸葛亮を追って鹵城に到着した。張?は「大軍の援軍が来たと祁山が知れば士気が上がるし、奇襲部隊を作って敵の背後を突き、積極的に戦おうとする姿勢を示すべきである。ただ前進するだけで戦う姿勢を見せないのでは民衆の失望を買う」と主張したが、司馬懿は諸葛亮の後を追いながらも積極的に戦う姿勢は見せず、祁山に到着しても山上の要害に立て籠もって塹壕を掘り、戦おうとしなかった。
前史
戦闘経過
前哨戦
祁山の戦い
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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