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出典検索?: "社会主義リアリズム"
社会主義リアリズム(しゃかいしゅぎリアリズム、露: социалистический реализм)とは、ソビエト連邦などの社会主義国において公式とされた美術・音楽・文学などの表現方法、評論の指針である。
社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め革命意識を持たせるべく教育する目的を持った芸術である。
社会主義リアリズムの源流帝政時代に撮影されたマクシム・ゴーリキー(右)。ゴーリキーは社会主義リアリズムの文学理論に多大な影響を与えた。左はアントン・チェーホフ(1900年)。
ロシアにおいて、政府が芸術を統制したのはソビエト政権が最初ではない。ロシア帝国も秘密警察を持ち、全ての出版物を検閲しており、ロシアの芸術家はこのころから検閲をすり抜けつつ発言する術を身につけていた。これらは結局、ソビエト政権下の時代になってもそのまま(しかも強化された形で)引き継がれた。
ロシア芸術における社会主義リアリズムの源流は、19世紀の新古典主義にさかのぼる。またロシア文学やロシア美術の写実主義において、広大な帝国の農村で貧窮する人々を描いた作家たちにも重要な関連がある。なかでも、マクシム・ゴーリキーの文学芸術に関する哲学が社会主義リアリズムの理論に大きな影響を与えた。彼の作品『母』(1907年)が最初の社会主義リアリズム文学とされ、かれの評論『社会主義リアリズムについて』が「ソビエト芸術」の必要性を論じた。
ロシア・アヴァンギャルド詳細は「ロシア・アヴァンギャルド」を参照
1920年代になり革命の嵐が去り、ソビエト連邦が誕生すると、それまでの保守的美術を支えていたパトロンである貴族階級やブルジョワ、ブルジョワ的芸術家らが処刑されたり亡命し、ロシアの芸術界には大きな空白があいた。ブルジョワジー好みの作風でなかったため、それまで不遇だったロシアの若き芸術家の一群たちは革命によって成立した政治形態に賛同し、保守的な美術を退け、前衛的かつ社会革命の為の芸術を試み、大衆への浸透を図った。彼らが近代において芸術が大衆文化全体の変革にかかわるものとして認識していたことが新しい。ここに、貴族的ハイ・カルチャーから、大衆的ロー・カルチャーへの移行が始まる。
芸術家らはすぐれた芸術運動を展開し「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる一大芸術運動となった。美術・音楽・文学・デザイン・建築などあらゆる分野でそれぞれの画期的な作品を発表することで革命的・政治的芸術の発露とした。これらは革命直後の気風とも一致し、革命後の新生活の理想や美を純粋に追求した。
国家政府の支持のもとで対外的にも展開され国外の芸術家にも影響を与えた。しかしこうした革新的芸術は労働者階級や大衆の一部、政治指導者のなかには難解とする者もあり、評判が芳しくなかったという。また彼ら前衛芸術家の間にも、実質的な革命芸術の方向性をめぐり路線の争いがあった。
この芸術運動は、スターリン政権成立後、終焉を迎える。強大な権力は前衛作家たちの路線争いを強制的に収束させ、「ロシア・アヴァンギャルド」の理念を排除し、結果的にこの国の芸術家らを挫折させ、唯物論的な「生産主義者」へ転向させる圧力となった。生産主義者らは宗教・芸術の排斥と打倒を掲げ、芸術の伝統や観念よりも生産効率を高める実践的運動を進めることになった。 ソビエト連邦ではロシア・アヴァンギャルドと同時期に、芸術は個人主義的なものではなく、国家を維持する労働者らによって革命的に主導され、労働者や社会に貢献しなければならないというプロレタリアートの主導性を重視した政治主導的な芸術観「プロレタリア芸術」も並行し出現していた。 これは、ロシアのみならずコミンテルンの各国支部などを通じヨーロッパやアメリカ、日本などでも同時発生的に起こった現象である。1910年頃、世界の各地で労働争議が激しくなった時期から、当時の多くの革命運動指導者や革新的芸術家がその考えを支持し、労働者の置かれた現状を把握し掘り下げ、より広汎な人々をプロレタリアとして自覚させ行動に立ち上がらせるような文学・絵画などの作品を発表し始めた。1930年代はアメリカでも、美術や文学の世界では、労働者や大衆にわかり易い大衆的ポピュリズムが主流となり、現実の事件や社会の矛盾などを写実的に描く芸術が主流を占めていた。 1930年代に入り革命後の混乱がおさまり、社会主義国家の建設が軌道に乗り始めた頃、労働者や農民出身の新しい芸術家たちが出現し、革命以前からの知識人や芸術家らも国家の理想とする「プロレタリア芸術」表現を支持する側に回った。これら二つの芸術家の流れを一つにまとめ上げ、社会主義国家の発展のために一人でも多くの労働者大衆を芸術を通じて社会主義建設に目覚めさせ、鼓舞しなければならないという政治主導的な芸術への動きが強まっていった。 労働者階級にある一般大衆にわかりやすく世界の「現実」に対する目を開かせ、革命や社会建設のために働く労働者を鼓舞するような芸術をつくるべく、1932年のソ連共産党中央委員会は芸術団体の国家による一元化を決定した。その年の秋、スターリンは作家たちとの懇談のなかで「社会主義リアリズム」の表現方針を提唱[1]し、あらゆる芸術分野の大会で公式に採用されるに至った。 その表現方針は この方針は過去にさかのぼって解釈され、帝政ロシア時代に書かれたゴーリキーの『母』のような作品も、社会主義リアリズムのさきがけだったとして扱われるようになった。多くの労働者大衆を引きつけるため、作品の娯楽性にも注意が払われた[2]。 映画では1934年の『チャパーエフ』のような実録物が賞賛された。当時、多くの国の急進的思想の人々のあいだで、ソ連に続き自国でも社会主義リアリズム芸術を推進させることで、世界のプロレタリアが革命に結集するようになるのではないかという声が高まった。
労働者階級の作品と周辺
社会主義リアリズムの国家による採用
現実を、社会主義革命が発展しているという認識の下で、空想的ではなく現実的に、歴史的具体性をもって描く
芸術的描写は、労働者を社会主義精神に添うように思想的に改造し教育する課題に取り組まなければならない
社会主義リアリズムの硬直化イサーク・ブロドスキー
しかし、この方針は芸術を、党の政治方針に添った「模範」や「枠」から出ないようにするものとなった。ソビエトにおいてスターリンの独裁体制が固まるにつれ、1925年に彼が提唱した「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という方針を元に全ての作品が評価されるようになった。美術でも音楽でも文学でも、労働者や農民大衆にもわかりやすく写実的筆致で、ロシアに古くからあった伝統的な画法や旋律、様式をもちいることが求められた。こうなっては、社会主義リアリズムは「リアリズム」とは言いながら、党の許す範囲の現実しか描けないリアリズムへと劣化するはめになった。
美術においては画題は限られ、農場や工場などで英雄的に働く労働者など、社会主義の発展を描いた絵画が量産された。政治的に安全な題材を選ぶ圧力のもと、特定の題材や構図が採用された(社会主義リアリズム絵画は西側の評論家から、「少女が農場でトラクターに出会うような絵ばかり」と揶揄された)。また、指導者スターリンの英雄的に修正された像も多数描かれた。
建築にも、「スターリン様式」という労働者大衆に感銘を抱かせるための、装飾的で権威的な新古典主義の高層ビルがロシア各地や東欧などに建てられた。スターリン死後は、建築は芸術というより工学として考えられるようになり、プレハブのような無機質な建物が品質に関係なく大量生産で乱造された。
文学においては、西欧のような「普通の人々」などを主人公にしたものではなく、国家に奉仕する「労働者」が英雄として描かれる作品が理想とされた。また、第二次大戦後には、共産党員は理想的人間であるので否定的な側面を描くべきではないとする『無葛藤』理論も一時期提唱された。
演劇においては、スタニスラフスキーによるモスクワ芸術座が手本となるよう要請された。
音楽においては、プロレタリアートの生活を反映した心を高ぶらせる音楽が求められる一方で、それに反する作品やその作曲家は攻撃の対象になった。