礼文郡(れぶんぐん)は、北海道(北見国)宗谷総合振興局の郡。
人口2,236人、面積81.64km²、人口密度27.4人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1町のまま変更されていない。 礼文はもと「れふんしり」と読んだ。江戸時代の礼文郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれたリイシリ場所に含まれた。 江戸時代後期になると文化4年には礼文島近海でロシアによる日本船襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が発生している。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、同年礼文郡域は天領とされた。文化5年には厳島神社
礼文町(れぶんちょう)
郡域
郡名の由来「礼文島#島名の由来」も参照
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の礼文郡の町村(8.船泊村 9.香深村 橙:礼文町)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、北見国および礼文郡が設置される。開拓使が管轄。
8月28日(1869年10月3日) - 金沢藩の領地となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。なお当時礼文郡に町村は設けられなかった。
明治9年の大区小区
第28大区
3小区 :
明治11年(1878年) - 船泊村、神崎村、香深村、尺忍村が成立。
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての礼文郡が発足。
明治13年(1880年)3月 - 宗谷郡外三郡役所(宗谷枝幸利尻礼文郡役所)の管轄となる。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、宗谷支庁の管轄となる。
明治35年(1902年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(2村)
船泊村(二級村) ← 船泊村、神崎村(現・礼文町)
香深村(二級村) ← 香深村、尺忍村(現・礼文町)
大正12年(1923年)4月1日 - 香深村が北海道一級町村制を施行。
昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道宗谷支庁の管轄となる。