礼冠
[Wikipedia|▼Menu]

礼冠(らいかん)は、礼服を着用する際に用いる。文武の区別があり、孝明天皇即位の礼まで使用された。
概要現存最古の礼冠。五条為良が後陽成天皇の即位礼で使用したもの

古代の日本では、草木の花、枝、葉を髪飾りとして頭に挿したり巻いたりする風習があった。こうした髪飾りを髻華(うず)や鬘(かづら)と呼んだ。のちには金属製の花飾りも髻華と呼ぶようになる。

推古天皇のとき、冠位十二階が制定されると、等級別に色分けされた布製の冠(帽子)に金銀の髻華を挿した。

奈良時代の『大宝律令』並びに『養老律令』の衣服令で、皇太子以下が着用する礼服、朝服、制服が制定された。礼冠は礼服とともに朝賀や即位の儀式に着用する最高礼装であったが、のちに朝賀が廃されると、即位の礼のみに使用されるようになった。

礼冠は親王以下五位以上の者が使用した。天皇と皇太子は冕冠を用いたが、広義の意味で礼冠とも称する。当初は礼冠は文官のもののみであったが、のちに武官用の武礼冠が制定された。礼冠は孝明天皇の即位の礼まで用いられた。宝玉の飾りが多く付くことから玉冠とも言う[1]

礼冠の構造は布製の内冠と、それを取り囲む金属製の外冠からなり[2]、さらにその周りに花茎が立ち並び、冠後部には光背のような飾りが付く。外冠の花唐草文様の意匠は、古来の髻華や鬘、また制度化された冠位十二階以来の系譜を受け継ぐものであると考えられている[3]
種類と構成
文官礼冠(18世紀)。徴の麒麟は諸臣の礼冠であることを表す

文官の礼冠の構成は以下の通りである。

三山冠(さんざんかん): 内冠に相当する部分で、髻(もとどり)をおさめる巾子(こじ)が三山形をなすのでこう呼ぶ。黒を塗ったでつくる。

金輪(かなわ):三山冠を取り囲むように配された外冠。金属製の花唐草文様の透かし彫りからなり、この部分を『貞観儀式』、『延喜式』にある押鬘(おしかずら)と解釈する説がある。位階に応じて金銀を用いる。近世の礼冠ではもっぱら鍍金である。

縁辺(えんぺん):外冠の下部で頭と接するところ。『貞観儀式』、『延喜式』にある櫛形(くしがた)はこの部分を指すとする説がある。

櫛形(くしがた):三山冠の後ろに光背のように立てられた花弁形の装飾。金属製の枠に黒の薄絹(紗)を張る。漆羅とも呼ばれる。

居玉(すえたま):三山冠の巾子の部分(冠頂)に付けられた宝玉。座と呼ばれる花弁形の金属製薄板が付く。

立玉(たてたま):金属製の棒もしくは針金で茎を作り、その先端に花弁形の金属製薄板を取り付け、中に宝玉を嵌入したもの。外冠の周りに立つ。

徴(しるし):冠前部の「額」に付く神獣を象った飾り。位階に応じて神獣は異なる。近世の礼冠の徴は木製に金箔を貼ったもの。

武官武礼冠、勧修寺経雄

『養老律令』衣服令の武官礼服の条に、武官の冠は「p羅(くりのうすはたの)冠」、「p?(くりのおいかけ)」とある[4]。後世の武官の冠では、黒羅の冠に黒色の?(おいかけ)と呼ばれる扇状の飾りが左右につくが、同形の冠であったかは不明である。

貞観儀式』、『延喜式』では、武官の礼冠は「武礼冠」と呼ばれるが、文官の礼冠の規定は詳しいものの、武礼冠の仕様は触れられていない。

藤原定長の『後鳥羽院御即位記』(『参議定長卿記』別記)によれば、武礼冠は「冠下戴烏帽。 入燈心輪三重。有紫緒。自耳外結之。」とある[5]。冠の下には烏帽(当時は三山冠をこう呼んだという)があってまずそれを被り、冠と鳥帽との間に灯心輪(灯心を絹で包んで輪にしたもの[6])を三重にして入れて、冠が烏帽に深入りしないようにした[注 1]。冠には紫の組紐が付き、耳の外で結んだという。同記には、武礼冠について『江記』に詳しいとあるが、現存する大江匡房著の『後三条院御即位記』に対応記事は見当たらない。

享保20年(1735年)11月の桜町天皇即位の礼の時に復興されたが(『八槐記』)、その形式は中国の「武弁冠」、「籠冠」などと呼ばれるものに似ており、日本の古資料に基づいたものか、中国資料の援用によるものかは判断しがたい。

『古事類苑』帝王部に所収されている「御即位次第抄」によると、武礼冠は紫の綸子で五山冠を作り、その周囲に金銅製の花唐草文様の透かし彫りをめぐらす。その上に、羅で作った箱形の物を載せ、左右のうなじ後方に黒羅を張り、前面の左右上方に山雉の羽三枚ずつを挿す[7]
宝髻(女性)

狭義の礼冠ではないが、『養老律令』衣服令には、内親王(天皇の娘と姉妹)、女王(内親王以外の女子皇族)、内命婦(五位以上の女子)の礼服に関する記述があり、そこに宝髻(ほうけい)と呼ばれる髪飾りへの言及がある[8]

それによると、宝髻は金玉、すなわち金と宝玉からなり、髻の緒を飾ることから宝髻と呼ぶとある。その形状は不明であるが、古代の絵画・彫刻や薬師寺吉祥天像に見られる髪飾りのような意匠だったとする説がある[9]
歴史文官の礼冠礼服姿
飛鳥時代

隋書』倭国伝に「隋に至りて、其の王、始めて冠を制す。以錦綵を以て之を為り、金銀鏤花を以て飾と為す」とある。推古天皇の冠位十二階制定に関する言及であり、色とりどりの錦で冠(帽子)を作り、さらに金銀の花飾り(髻華)を付けたという。『日本書紀』推古11年(603年)12月条によると、元日に髻華を装着した。

旧唐書』倭国日本伝に、武周武則天に謁見した遣唐使・粟田真人の冠についての記述がある。それによると、粟田は「進徳冠を冠り、其の頂に花を為り、分れて四散せしむ」とある[10]。つまり、粟田は進徳冠(しんとくかん)に似た冠を被っていたが、その頂には花の飾りが付けられており、四方に垂れ下がっていたという。花は髻華を指すと思われる。

また、同書では、冠位十二階について、「貴人は錦帽を戴き、(中略)髪を後に束ね、銀花長さ八寸なるを佩ぶること、左右各々数枝なり、以って貴賤の等級を明かにす」とある[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef