磯野 恭子(いその やすこ、1934年1月6日[1] - 2017年8月2日[2])は、山口放送に在籍していたアナウンサー、テレビディレクター。同局の取締役や岩国市の教育長も歴任した。 広島県江田島市出身[2]。広島県立広島皆実高等学校を卒業後、1955年に広島大学へ進学[3]。 1959年に山口放送にアナウンサーとして入社[4]。1962年に制作部に異動してラジオ番組を制作し、その後テレビ番組のディレクターに転じ[5]、第二次世界大戦をテーマとする数多くのドキュメンタリー番組を制作した。その中には、文化庁芸術祭やギャラクシー賞などで受賞した作品も多い。制作した番組の多くは、横浜市にある放送ライブラリーで視聴できる[6]。また、山口放送に在職中の1994年には、NHKで『テレビドキュメンタリー 磯野恭子の世界』と題する磯野を特集する番組が5回に渡って放送された[7]。 テレビ制作部長を経て、1988年に同局の取締役テレビ制作局長に就任し、民放初の女性役員となった[2]。常務取締役を務めた後、2001年に山口放送を退職[5]。2004年から6年間、岩国市の教育長を務めた[8]。 個人としては、1979年には日本女性放送者懇談会賞を、1982年には国際ソロプチミスト婦人援助賞を受賞した。また、2000年には紫綬褒章を受章した[5]。 2017年8月2日、心筋梗塞のため岩国市内の自宅で死去。83歳没[2]。
経歴
制作した番組
『ある執念 ?開くか再審の道?』 (1976年、民放連賞優秀賞)[5]
『聞こえるよ母さんの声が・・・ ?原爆の子・百合子?』(1979年、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリーの部大賞)、ベルリン未来賞受賞)[2][9]
『山口のヒロシマ』(1980年、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリーの部優秀賞)[5][9]
『限りある命のために ?カネミ油症患者の16年?』(1984年、「地方の時代」映像祭特別賞、ギャラクシー賞、放送文化基金賞本賞)[5][10]
『死者たちの遺言 ?回天に散った学徒兵の軌跡』(1984年、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリーの部優秀賞)[5][9]
『戦後40年シリーズ ドキュメンタリー 写真の中の日本人』(1985年、民放連賞優秀賞)[5]
『チチの国ハハの国 ?ある韓国人女性の帰国?』(1986年、民放連賞最優秀賞)[5]
『きりぎりすの山登り 童謡詩人・金子みすゞ』(1986年)[6]
『生きて生きて19年 ?カネミ油症事件?』(1987年、「地方の時代」映像祭特別賞)[5]
『祖国へのはるかな旅 ?ある中国残留婦人の帰国?』(1987年、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリーの部作品賞)[5][11]
『いま松花江に生きる ?中国残留婦人?』(1987年、民放連賞優秀賞)[5]
『海鳴りのうた ?朝鮮半島から来た炭鉱夫たち?』(1991年、民放連賞優秀賞)[5]
『大地は知っている ?中国へ残された婦人たち?』(1992年、文化庁芸術祭テレビドキュメンタリーの部作品賞)[5][11]
『モモイロペリカン・カッタ君の春 幼稚園児との6年の記録』(1994年)[6]
『帰らなかった日本兵 インドネシア残留兵はいま』(1996年)[6]
『海峡の町のミュージカル』(1996年)[6]
『NNNドキュメント'96 原爆の子 百合子50歳』(1996年)[6]
『永住帰国 中国残留婦人の半世紀』(1997年)[6]
『NNNドキュメント'00 私をみつめて ?介助犬ブラッドと生きる?』(2000年)[6]
『私の故郷 山口県三隅町 ?若者たちが描く 画家香月泰男の地球?』(2001年)[6]
出典^ 『現代物故者事典2015?2017』(日外アソシエーツ、2018年)p.51
^ a b c d e “磯野恭子さん死去 83歳 山口放送で反戦番組
^ “<6> 放送界へ 個性生かす場 TV志望