磯谷郡(いそやぐん)は、北海道(後志国)後志総合振興局の郡。人口4,575人、面積449.78km²、人口密度10.2人/km²。(2021年7月31日、住民基本台帳人口)以下の1町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に寿都郡寿都町の一部(磯谷町)を加えた区域にあたる。 かつては磯屋郡と表記した。江戸時代、磯屋郡域は和人地となる。松前藩によってイソヤ場所が開かれていた。陸上交通は、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったが、北の岩内郡へは雷電峠が難所となって陸路が途絶えて舟に頼っており、安政年間に磯谷請負人の桝屋栄五郎がアフシタ以西の一里あまりを開削し、岩内請負人仙北屋仁左衛門がアフシタ以東の2里(7.9.km)余を開削、以降、雷電嶺(国道229号の前身)では通年の陸路での移動が可能となった。また、このとき中間の温泉(朝日温泉の前身)には箱館在住の又兵衛を家守とする家を建て、通行の官吏旅客の便を図った。
蘭越町(らんこしちょう)
目次
1 郡域
2 歴史
2.1 郡発足までの沿革
2.2 郡発足以降の沿革
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革 北海道一・二級町村制施行時の磯谷郡の町村(21.磯谷村 22.南尻別村 黄:蘭越町 緑:寿都郡寿都町)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、後志国および磯谷郡が設置される。開拓使が管轄。
9月14日(1869年10月18日) - 北部(横澗・島古丹・能津登・西土場など)が米沢藩[1]、南部が五島盛明[2]の領地となる。
明治4年
3月28日(1871年5月17日) - 五島盛明の領地が再び開拓使の管轄となる。
8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び全域が開拓使の管轄となる。
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての磯谷郡が発足。
明治13年(1880年)1月 - 寿都郡外三郡役所(寿都磯谷歌棄島牧郡役所)の管轄となる。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。
明治19年(1886年)
1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。
12月 - 函館支庁が廃止。
明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、寿都支庁の管轄となる。
明治35年(1902年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、横澗村、島古丹村、能津登村、北尻別村の区域をもって磯谷村(二級村)が発足。(1村)
明治42年(1909年)4月1日
北海道二級町村制の施行により、南尻別村(二級村、単独村制)が発足。