磯田光一
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磯田 光一(いそだ こういち、1931年(昭和6年)1月18日 - 1987年(昭和62年)2月5日)は、日本文芸評論家イギリス文学者東京工業大学教授などを歴任。没後勲四等旭日小綬章受章。

1964年に三島由紀夫論『殉教の美学』を刊行し文壇に登場。戦後文学の再検討を進め、文学を通した近代論へと批評の幅を広げた。代表作に『永井荷風』、『思想としての東京』、『鹿鳴館の系譜』などがある。
来歴・人物

神奈川県横浜市中区伊勢町(現・西区伊勢町)に生まれ、東京都葛飾区亀有育ち。東京府立第十一中学校(現・東京都立江北高等学校)3年の時に敗戦を迎え、1948年に第一高等学校 (旧制)入学。東京大学文学部英文学科に進学し、イギリスロマン派を専攻して卒業[1]1960年(昭和35年)に東京大学院人文科学研究科修士課程・英語英文学専門課程修了し、同助手となる[2]

1960年(昭和35年)、「三島由紀夫論」で第3回群像新人文学賞の次席となり、『群像』10月号に掲載されて文芸評論家としてデビュー[2]。最初の評論集『殉教の美学』以来、三島由紀夫日本浪曼派や戦後史などに興味を示し、永井荷風などの文学に考察を加えた[2][3]中央大学専任講師を経て助教授となったが、1969年(昭和44年)に大学紛争で辞職[2]。のち梅光女学院大学教授、1984年(昭和59年)から東京工業大学教授。

三島文学を近代日本の土着性の中でとらえ直そうとした『殉教の美学』、英文学と高見順島木健作を対比させて転向の問題を論じた『比較転向論序説』、小林秀雄などを論じた『パトスの神話』、『吉本隆明論』など西欧化と日本の伝統の両面から広く時代背景をとらえた文芸評論を発表し続けた[1][2]1970年(昭和45年)、三島の自殺に衝撃を受け、『殉教の美学』を1年間刊行停止し、遺族の意思によらない座談会や雑誌特集に協力しない旨を記した喪中葉書を知友らに配布した[2]

初期はロマン主義的な裁断批評が目立ったが、芸術選奨文部大臣賞を受賞した1978年(昭和53年)の『思想としての東京』以後、実証的な手法で近代日本をとらえる仕事が増え、昭和文化の歴史的再検討が結実した[2]1979年には『永井荷風』で第1回サントリー学芸賞1984年には『鹿鳴館の系譜』(1983年)で読売文学賞を受賞。同年、日本芸術院賞受賞[4]。戦後文学の軌跡についても『戦後史の空間』(1983年)、『左翼がサヨクになるとき』(1986年)などの著作がある[2]

萩原朔太郎』をほぼ完成させた後、1987年(昭和62年)2月5日に心筋梗塞により千葉県松戸市の病院で死去[2][5]。戒名は一念院文林影居士。没後勲四等旭日小綬章受勲。かつて東大英文科で共に助手を務め、東京大学教授だった中野里皓史も約2か月前に亡くなっている。


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