いそかわ かつひこ
磯川 勝彦
本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)
別名義磯川 元春(いそかわ もとはる)
生年月日 (1882-05-15) 1882年5月15日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市本郷区春木町
職業俳優
ジャンル新派、劇映画(サイレント映画、トーキー)
活動期間1899年 - 1941年
著名な家族沢村源之助 (父)
事務所磯川金之助
磯川 勝彦(いそかわ かつひこ、1882年5月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名磯貝 子之助(いそがい ねのすけ)、旧芸名磯川 元春(いそがわ もとはる)[1][2][4]。 1882年(明治15年)5月15日、東京府東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷)に生まれる[1][2]。父は「沢村源之助」で、磯川が数え年2歳(1883年)で父と死別している[1][2]、とされるが、初代から三代目までの「沢村源之助」は江戸時代にすでに死去しており[5]、四代目沢村源之助が亡くなったのは1936年(昭和11年)であり[6]、そのとき磯川はすでに数え年55歳である[1][2]。 数え年17歳のときには、父の遺志によって実業に就く[1]。しかし磯川は演劇を志して「川上音二郎一座」に参加、翌1899年(明治32年)秋には、満17歳にして『当り的』で東京・新富座の舞台に立った[1]。1902年(明治35年)には、「伊井蓉峰一座
人物・来歴
満45歳になった1927年(昭和2年)8月、京都に移り、日活大将軍撮影所時代劇部に入社した[1]。同年9月15日に公開された辻吉郎監督の『鳴門秘帖 最終篇』に「船大工大助」役で出演し、「磯川 元春」の名で映画界にデビューした[3][4]。同撮影所はまもなく太秦に移転し、日活太秦撮影所に引き続き所属、同年10月1日に公開された池田富保監督による大作『建国史 尊王攘夷』では、安藤帯刀を演じた[4]。
1932年(昭和7年)5月20日に公開された辻吉郎監督の『沓掛時次郎』以降、「磯川 勝彦」と改名した[1][3][4]。組田彰造(久見田喬二)監督の『天兵童子』全4作に出演し、1941年(昭和16年)8月14日に公開された『天兵童子 第四話 甦る力』にクレジットされた満59歳以降の出演記録はなく、消息は不明である[1][3][4]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって設立した大映に参加した様子はない[1][3][4]。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』によれば、同誌執筆の時点では、すでに死去したものとされている[1]。また、1940年(昭和15年)に日活太秦撮影所の撮影所長だった池永浩久の発願によって、京都市上京区にある法輪寺に映画関係者400名余りの霊牌が奉祀されたが、その中に磯川の名前も刻銘されている。没年不詳。 すべてクレジットは「出演」である[3][4]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[3][4]、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][8]。「磯川元春」名義のもののみ、その旨を明記した[3][4]。 特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[3][4]。すべてサイレント作品である[3][4]。
フィルモグラフィ
日活太秦撮影所
『鳴門秘帖 最終篇
『建国史 尊王攘夷』 : 監督池田富保、「磯川元春」名義、1927年10月1日公開 - 安藤帯刀
『神文
『浪人笠』 : 監督清瀬英次郎、「磯川元春」名義、1927年11月25日公開 - 藤の屋喜蔵
『忠次旅日記 御用篇』(『忠次旅日記 忠次御用篇』) : 監督伊藤大輔、「磯川元春」名義、1927年12月27日公開 - 沢田屋喜兵衛、3作再編集版106分が現存(NFC所蔵[7])
『叛旗』 : 監督志波西果、「磯川元春」名義、1928年1月7日公開
『続水戸黄門』 : 監督池田富保、「磯川元春」名義、1928年4月15日公開 - おみつ父要蔵
『江藤新平』 : 監督志波西果、「磯川元春」名義、1928年6月21日公開 - 英雄崇拝狂 乙
『緋鹿子草紙』 : 監督高橋寿康、「磯川元春」名義、1928年8月31日公開 - 八百屋久七(主演)
『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』 : 監督池田富保、「磯川元春」名義、1928年9月27日公開 - 池田屋惣兵衛