磯崎新
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磯崎新
磯崎新(2001年)
生誕 (1931-07-23) 1931年7月23日
日本大分県大分市
死没 (2022-12-28) 2022年12月28日(91歳没)
日本沖縄県那覇市
国籍 日本
出身校東京大学工学部建築学科卒業
東京大学大学院数物系研究科建築学専攻博士課程修了
職業建築家
配偶者宮脇愛子
受賞日本建築学会賞(1967、75年)
芸術選奨新人賞(1969年)
毎日芸術賞(1984年)
RIBAゴールドメダル(1986年)
朝日賞(1988年)
日本文化デザイン大賞(1993年)
ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞(1996年)
プリツカー賞(2019年)

建築物大分県立大分図書館
つくばセンタービル
ロサンゼルス現代美術館
デザインモンローチェアー
著作空間へ
1976年撮影

磯崎 新(いそざき あらた、1931年昭和6年)7月23日 - 2022年令和4年)12月28日)は、日本建築家一級建築士アトリエ建築家日本芸術院会員。

大分県大分市出身。父は実業家俳人の磯崎操次。妻は彫刻家宮脇愛子茨城つくばセンタービル米国ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。
経歴

1931年 - 磯崎藻二の長男として生まれる。父の藻二は中学卒業後
中国に渡り、東亜同文書院を卒業、帰国して家業の米穀商と廻船業を継ぎ、1924年に大分合同トラックを創業、戦後社長を務めた[1][2]

1945年 - 母親が交通事故で死去[2]

1950年 - 大分県立大分第一高等学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を卒業。同級生に赤瀬川隼がいた。

1951年 - 父親死去。

1954年 - 東京大学工学部建築学科を卒業。

1960年 - 丹下健三研究室で黒川紀章らとともに東京計画1960に関わる。

1961年 - 東京大学大学院数物系研究科建築学専攻博士課程を修了。伊藤ていじ川上秀光らと八田利也(はったりや)のペンネームを用い「現代建築愚作論」を執筆し、反響を呼ぶ。

1963年 - 丹下健三研究室(都市建築設計研究所)を退職し、磯崎新アトリエを設立。

1967年 - 大分県立大分図書館竣工。(36歳)初期の代表作で、1997年に改修されアートプラザになった。

1968年 - 株式会社環境計画代表取締役。

1970年 - 大阪万博のお祭り広場(1970年)を丹下と共同で手がけた。

1972年 - 宮脇愛子と結婚。

1975年 - 著書『建築の解体』、群馬県立近代美術館北九州市立美術館など多産な年。

1980年 - 写真家篠山紀信とコンビで「建築行脚」シリーズを刊行( - 1992年)。

1983年 - つくばセンタービル竣工。ポストモダン建築の旗手と目されるようになった。(52歳)

1986年 - 東京都庁舎のコンペに参加(8社指名)。超高層建築の丹下健三案(当選)に対して、シティホールのあり方を問う中層建築の案を提出した。

1988年 - 熊本県知事の細川護熙に招かれる形で、くまもとアートポリス事業の初代コミッショナーに就任( - 1996年)。

1991年 - 2000年まで世界各地で開催された ⇒Anyコンファレンスを企画、参加。

1991年 - 2002年まで第一期、二期、三期にわたり『 ⇒批評空間』誌編集顧問。

1996年 - 織部賞の選考委員長に就任。

1996年, 2000年, 2004年 - ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展・日本館コミッショナー。
1996年撮影

2017年 - 日本芸術院会員に選出。

2020年 - 同済大学建築都市計画学院名誉教授。

2022年12月28日 - 老衰のため那覇市の自宅で死去。91歳没[3]

受賞等

1967年 - 日本建築学会賞作品賞(大分県立大分図書館)

1969年 - 芸術選奨新人賞美術部門

1975年

日本建築学会賞作品賞(群馬県立近代美術館)

BCS賞(1984年、1989年、1991年にも受賞)


1984年 - 毎日芸術賞(つくばセンタービル)

1986年 - RIBAゴールドメダル

1988年 - 朝日賞[4]

1993年 - 日本文化デザイン大賞

1996年 - ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展金獅子賞(第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」)1996年撮影

2019年

プリツカー賞(磯崎は賞の設立から10年近く審査する側にいた[5]

大分市名誉市民

大分県特別功労者


評価.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年1月)

CIAM以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。

一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。

そもそも磯崎の出発点は大分市の「新世紀群」という絵画サークルの活動から始まった。そこは後にネオ・ダダで活躍した吉村益信赤瀬川原平風倉匠らも在籍した前衛的土壌であった(なお赤瀬川原平の兄の赤瀬川隼(直木賞作家)とは、旧制中学の同級生)。また磯崎が1960年に丹下健三の東京計画1960に加わっていた頃、ネオ・ダダは新宿百人町の吉村アトリエ(通称ホワイトハウス:磯崎による設計)を拠点に反芸術的活動を展開しており、磯崎もたびたびそこを訪れていた。この時点において磯崎はネオ・ダダ的建築家として最も過激な思想の基に模索していた。

1980年代以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのようなプラトン立体を多用することで知られている。

現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。
その他

メタボリズムについて、「一九六二年頃の私の思考を整理してみると、私はメタボリズムと明瞭に逢遇している」と書いている( ⇒http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/888/ 最終段落)

読売新聞で、バブル期の東京都の公共建築である東京芸術劇場東京都庁舎江戸東京博物館東京都現代美術館東京国際フォーラムの5作品を「粗大ゴミ」と評した。ただ、これは建築家のデザイン力だけではなく、東京都が建築家に要求したプログラムに対する発言とされる[6]

コンペの審査員も多数務め、長谷川逸子湘南台文化センターや、伊東豊雄せんだいメディアテークの際の審査員でもある。プリツカー賞の審査員も務めた。

丹下健三を最もよく知る一人で、2005年の葬儀において弔辞を読んだ。

若い頃に影響を受けたのはチェ・ゲバラ毛沢東[7][8]

作家の沢木耕太郎と親交があり、沢木の紀行文『深夜特急』にも登場する[9]

建築模型を数多く制作している建築家としても知られている。1990年代にロサンゼルス現代美術館を皮切りに、国内(群馬県立近代美術館、水戸芸術館、北九州市立美術館、ハラミュージアム・アーク等)国外(スペイン、ギリシア、イギリスなど)をサーキットした大回顧展が行われ注目を集めた。現在それらの模型や資料は大分市のアートプラザ(磯崎新建築記念館、磯崎設計の旧大分県立大分図書館)に収蔵され、3階の磯崎新建築展示室で順次公開されており、磯崎建築を知る上で最も重要な拠点となっている。

祖父の磯崎徳三郎は大分市議会議長も務めた米問屋で、その米倉庫は三浦義一林房雄が子供の頃遊び場としており、その縁で三浦義一の寄付により建設された旧大分県立大分図書館の設計者に指名された。

東京大学2年時に父を亡くしたため、渡辺一夫の本郷真砂町の自宅に住み込み、渡辺の息子に数学を教えた。英語を教えていたのは高橋康也

父の磯崎操次(1901-1951)は大分貨物自動車会社を経営する実業家であり、俳名を磯崎藻二として吉岡禅寺洞が福岡で1918年に創刊した新興俳句派の俳誌「天の川」同人であった俳人。

韓国近代建築の巨匠・金壽根(1931-1986)は東京大学大学院時代に隣の研究室に所属しており、友人。

関西大学名誉教授の古後楠徳は磯崎を数学好きにさせ、「"代数"はダメだ。"幾何学"に進め」とアドバイスし、結果的に建築学科へ導いた高校時代の恩師である。

新建築住宅設計競技など審査員を歴任。1975年の「新建築住宅設計競技」では、「わがスーパースターたちのいえ」という課題を出し、1?3位の入賞者すべてを外国人にしたことで主催者を驚かせたが、賞金の一部は日本人に行くようにするという規定があったため、選外佳作という賞を急遽設け、日本人応募者に受賞させた[10]。1位は当時AAスクール在学中のトム・ヘネガンで、ハリウッドスターたちの家の写真にただ×(No!)が描かれただけのもので、2位、3位も同様にコンセプチュアルなものだった。磯崎は審査評として、新建築の12月号に「日本の建築教育の惨状を想う 」を発表し、建築界を騒がせた。


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