「志貴皇子」とは別人です。
磯城皇子
時代飛鳥時代
生誕不詳
薨去大宝元年(701年)以前?
位階浄広壱
磯城皇子(しきのみこ)は、天武天皇の子。冠位は浄広壱。 事績は明らかでなく、朱鳥元年(686年)8月15日に(天武天皇の病状が思わしくないことが原因で)志貴皇子と共に食封200戸を加えられたが、以後の消息は分かっていない。天武8年(679年)の吉野の盟約に参加した諸皇子に名を連ねていないこと、また『新撰姓氏録』に「浄広壱」とあり大宝律令の位階制(大宝元年〔701年〕成立)による叙位を受けていないことから、大宝律令成立直前に30歳前後で早世したと推定される。また、母親の身分が高くなかったことも関係して、数多くいた天武天皇の皇子の中では影の薄い存在であった。 なお、「微過に縁て」皇子の列から除かれたという御方大野の父[1]を磯城皇子と見る説があるが、その根拠は乏しい。 三園真人
概要
系譜
父:天武天皇
母:宍人カジ媛娘(宍人大麻呂の娘)
同母兄弟姉妹:忍壁皇子、泊瀬部皇女、託基皇女
妻:不詳
男子:倭王[2]
男子:広瀬王[2]
男子:酒部王[2](?-730)
脚注^ 『続日本紀』天平19年10月3日条
^ a b c 澤田[1990: 78]
^ 『新撰姓氏録』左京皇別
^ 『日本三代実録』貞観4年5月22日条、同7年6月23日条
参考文献
澤田浩「『薬師寺縁起』所引天武系皇親系図について」『國史学』第142号、国史学会、1990年