磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコアを磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある[1]:336-337。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある[注 1]。
縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。 角形ヒステリシス特性を有するある種の磁性材料をストレージまたはスイッチングデバイスとして利用する、というコンセプト自体は、コンピュータの発明初期より存在した。しかし、磁気コアメモリの発明者とされるのは、アン・ワング、ジャン・A・ライクマン、ジェイ・フォレスターの3人である。Whirlwindで使われた史上初の磁気コアメモリ(1953年)。容量は2048ビット
歴史
RCA社のジャン・A・ライクマンもコアメモリに関する先駆的な研究を行っている。ライクマンはフェライト製のバンドを薄い金属管に巻き付けるという構造のストレージシステムを発明し[2]、アスピリン錠のプレス成型機を転用した機械を使ってこれを実際に製造し、1949年に発表した。しかし、ライクマンはRCA社において当時の次世代メモリの本命と目されていた静電記憶管(electrostatic memory tube。CRTを利用した記憶装置)であるウィリアムス管およびセレクトロン管の開発の中心人物であり、後のコアメモリに繋がる研究はこれだけに終わった[3]。
マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Whirlwind プロジェクトに従事していたジェイ・フォレスターらのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムのフライトシミュレーションに使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初はウィリアムス管を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。そのため、MIT放射線研究所が開発中であった双電子銃管(dual-gun electron tube)を採用することにしたが、これは失敗で、何年たっても完成せず、1951年の時点ではウィリアムス管以下の性能で、Whirlwindに要求される性能を満たさなった。アメリカ空軍の防空システムに使用するため、年間約100万ドルと言う莫大な金が投入されているにもかかわらず、メインメモリが遅すぎて使い物にならない状態だったので、ジェイ・フォレスターは代替品を探すのに必死であった。
ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。こうして1951年に磁気コアメモリの原理が発明された。ジェイ・フォレスターの2年の研究の結果、アクセス時間9マイクロ秒、記憶容量1024ワードという、Whirlwindの要求性能についに到達し、1953年夏、磁気コアメモリがWhirlwindに取り付けられた。これが史上初、コンピュータに実用搭載された磁気コアメモリである[1]:21。当時各所で開発中であった次世代の静電記憶管(前述のMITの双電子銃管、RCA社のセレクトロン管など)が実用化される前に、これを超える性能を持つ磁気コアメモリが実用化されたことにより、静電記憶管の研究は全て中止された。ウィリアムス管を採用していたIBM 702(1953年発売)もすぐに磁気コアメモリを採用したIBM 704(1954年)を発売し、フェランティ社など他のコンピュータ会社もそれに続いた。商用製品としては、ジュークボックスのシーバーグ社が1955年に「Tormatコントロールシステム」として磁気コアメモリを用いた記憶システムを採用し、コンピュータ以外に電話機やその他の産業用機器など非常に広い範囲で採用されるようになった。TDKが製造したコアメモリのプレーン。25セント硬貨(直径24.26mm)とほぼ同じ大きさの区画に18x24個(432bit)のコアがある。日本人が手作業で編組していた。
磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。