磁気コアメモリ
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CDC 6600(1964年)で使われた磁気コアメモリ。大きさは10.8×10.8 cm。1コアごとに1ビット、全体では64 x 64 コアで合計4096ビットの容量がある。拡大図はコアの構造を示したもの

磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコア磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある[1]:336-337。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある[注 1]

縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。
歴史

角形ヒステリシス特性を有するある種の磁性材料をストレージまたはスイッチングデバイスとして利用する、というコンセプト自体は、コンピュータの発明初期より存在した。しかし、磁気コアメモリの発明者とされるのは、アン・ワング、ジャン・A・ライクマン、ジェイ・フォレスターの3人である。Whirlwindで使われた史上初の磁気コアメモリ(1953年)。容量は2048ビット

磁気コアメモリを世界で初めて開発したのは上海生まれのアメリカ人物理学者であるアン・ワング(王安)と Way-Dong Woo である。彼らは1949年に「パルス転送制御デバイス」を開発したが、その名称が意味するのはコアの磁場を活用して電気機械式システムの制御をするというものだった。ワングと Woo はハーバード大学ハワード・エイケン計算研究所に勤務していたが、大学側は彼らの発明を売り出すことに興味を持たなかった。そのため、ワングらは自分たちで特許を申請することにした。Wooが病気のため中国に帰国したのち、1955年にワングが米国において単独で特許権を取得したため、ワングが磁気コアメモリの発明者とされる。

RCA社のジャン・A・ライクマンもコアメモリに関する先駆的な研究を行っている。ライクマンはフェライト製のバンドを薄い金属管に巻き付けるという構造のストレージシステムを発明し[2]アスピリン錠のプレス成型機を転用した機械を使ってこれを実際に製造し、1949年に発表した。しかし、ライクマンはRCA社において当時の次世代メモリの本命と目されていた静電記憶管(electrostatic memory tube。CRTを利用した記憶装置)であるウィリアムス管およびセレクトロン管の開発の中心人物であり、後のコアメモリに繋がる研究はこれだけに終わった[3]

マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Whirlwind プロジェクトに従事していたジェイ・フォレスターらのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムのフライトシミュレーションに使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初はウィリアムス管を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。そのため、MIT放射線研究所が開発中であった双電子銃管(dual-gun electron tube)を採用することにしたが、これは失敗で、何年たっても完成せず、1951年の時点ではウィリアムス管以下の性能で、Whirlwindに要求される性能を満たさなった。アメリカ空軍の防空システムに使用するため、年間約100万ドルと言う莫大な金が投入されているにもかかわらず、メインメモリが遅すぎて使い物にならない状態だったので、ジェイ・フォレスターは代替品を探すのに必死であった。

ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。こうして1951年に磁気コアメモリの原理が発明された。ジェイ・フォレスターの2年の研究の結果、アクセス時間9マイクロ秒、記憶容量1024ワードという、Whirlwindの要求性能についに到達し、1953年夏、磁気コアメモリがWhirlwindに取り付けられた。これが史上初、コンピュータに実用搭載された磁気コアメモリである[1]:21。当時各所で開発中であった次世代の静電記憶管(前述のMITの双電子銃管、RCA社のセレクトロン管など)が実用化される前に、これを超える性能を持つ磁気コアメモリが実用化されたことにより、静電記憶管の研究は全て中止された。ウィリアムス管を採用していたIBM 702(1953年発売)もすぐに磁気コアメモリを採用したIBM 704(1954年)を発売し、フェランティ社など他のコンピュータ会社もそれに続いた。商用製品としては、ジュークボックスのシーバーグ社が1955年に「Tormatコントロールシステム」として磁気コアメモリを用いた記憶システムを採用し、コンピュータ以外に電話機やその他の産業用機器など非常に広い範囲で採用されるようになった。TDKが製造したコアメモリのプレーン。25セント硬貨(直径24.26mm)とほぼ同じ大きさの区画に18x24個(432bit)のコアがある。日本人が手作業で編組していた。

磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。フォレスターの発明した電流一致システムでは、ワイヤの1つをコアに対して45度で走らせる必要があったが、これは機械によるワイヤリングが難しかったため、人間が顕微鏡を見ながら精密なモーター制御を行ってコアの配列を編み上げる必要があった。そのため1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・TDK)の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクニカルセンター)が1956年に設立されている。日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)におけるコアメモリの生産開始時期は不明である。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、当初は縫製工が雇われたが、1956年に東京通信工業(現・ソニー)が工員募集の際に「女工」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、それまでの紡績メーカーに代わって電子機器メーカーの工員が女性の花形職業となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには主記憶装置として広く使われるようになり、低価格/低性能の磁気ドラムメモリも高価格/高性能の静電記憶管(ウィリアムス管など)も使われなくなっていった。「コアメモリプレーン」として1枚だけで使われることもあった(平面実装方式)が、「コアメモリスタック」として何枚も積み重ねて大容量化を図った製品もあった。例えば8K*8Kのプレーンを64枚スタックした3D方式のコアメモリの場合、1スタックで8K*8K*64 = 4096Kの大容量を扱えることになる。ただし、「スタック」の形式をとると発熱や価格などの問題があるため、特にコアメモリの実装密度が向上した1970年代以降は、一般的な計算機ではコアをスタックするよりも平面展開してプレーン1枚だけで使われることが多かった。磁気コアメモリの4×4のプレーンの模式図。 縦横の「X」と「Y」がそれぞれ「X線」および「Y線」で、この2つは電流を流してコアを励磁する駆動線である。「S」が磁化方向を読み取るセンス線(探査線)で、もし目当てのコアが磁化反転した場合に電流が流れる。「Z」がインヒビット線(禁止線)で、読み込み電流を流したくない場合や書き戻し電流を流したくない場合(「0」を書き込みたい場合)に妨害電流を流す。

コストを抑えるため、半自動化に向けての技術革新が続いた。1956年にIBMのグループが、最初の数本のワイヤーを各コアに自動的に通す装置の特許を申請した。この装置はフェライトコアの平面部分を「ネスト」状に保持し、さらにその後、中空の針の配列をコアに突き通して、ワイヤーを編組む際のガイドとするものである。この装置を使用することで、128 x 128コア(16,384bit)の配列においてX線とY線(縦横のワイヤー)を編組むのにかかっていた時間が、それまでの25時間から12分に短縮された[4][5]。フェライトコアが微細化するに従って、中空の針を使う方式は役に立たなくなってしまった物の、代わりにガイド用の通路が付いた補助ネストが開発された。フェライトコアを「patch」ごとに裏材に接着するようになり、編組時や使用時に便利になった。メモリプレーンを編組するための針をワイヤーに突合せ溶接することで、針の径はワイヤーの径と同じになり、(特許の出願はDRAMの普及より後になるが)針自体を無くすための発明もなされた[6][7]。オートメーション化において重要だったのが、インヒビット線(禁止線)とセンス線(探査線)の編組方式の改良で、これによりセンス線を斜め方向に長々と伸ばす必要が無くなり、また各ブロックにおいてフェライトコアをより密接に配置することも可能となった[8][9]

磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼムーアの法則に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。フェライトコアも1950年代には直径0.1インチ(2.5 mm)だったものが、1966年には0.013インチ(0.33 mm)にまで微細化。1967年には台湾でも高雄日立(現・高雄晶傑達光電科技)が設立されてコアメモリの生産を開始する。日本や台湾など極東の人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して人の手で編組みするという、典型的な労働集約型の製造方法を取っていた。Intel 1103(1970年)。世界初のDRAMで、磁気コアメモリを置き換える形で普及した

その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ (RAM) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初のDRAM、Intel 1103(容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitのSRAMであるIntel 1101を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。1973年から1978年にかけて、末期には生産されるコアメモリのほとんどが保守用パーツだったが、次第に市場が縮小していった。

磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、ウィリアムス管に代表される真空管メモリは先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。


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