碧川 かた(みどりかわ かた、明治2年10月10日[1][2](1869年11月13日) - 昭和37年(1962年)1月14日)は日本の看護婦、婦人運動家。二番目の夫はジャーナリストの碧川企救男。詩人三木露風、映画カメラマン碧川道夫は実子。露風は童謡「赤とんぼ」を作り、かたの碑文に「赤とんぼの母」と書いた。 鳥取藩士(城代家老)和田邦之助の娘として生まれた。播州龍野藩奉行三木家の息子節次郎との間に二児をもうけるが離婚する。 東京帝大の看護婦の草分けとなる。碧川企救男と知り合い、東大在職七年の後明治36年(1903年)に北海道小樽で再婚した。 熱心なクリスチャンで、昭和37年(1962年)には婦人参政権獲得運動を志し、議会運動に立って、昭和37年(1962年)1月14日92歳で他界した。 [3]
経歴
碧川かた関連年表
1863年 因幡20士事件。本圀寺の家臣が暗殺さる。鳥取藩家老・和田那之助信旦(のぶゆき)が元凶とみられ、激怒した藩主は足蹴にした。切腹を願いでるが、阻止され、登城禁止。東郷町松原(現:湯梨浜町)に蟄居。[4]
1872年10月10日 (1869年 、1870年の説もある)[2]。碧川かた出生。父和田那之助、母みねの二女。元重臣の堀正・千代の養女となる。
1874年 養父堀正、清国台湾へ出征。台湾出兵
1877年 3月に養父堀正政府軍として西南戦争に参加。4月27日、碧川企救男、福岡県企救郡小倉で誕生。父真澄、母みねの次男。
1878年 堀正、典獄として高知へ。
1887年 堀正、長崎転勤でかたは円覚寺住職の養女となり、花嫁修業に励む。
1888年 かた、三木節次郎と結婚。龍野町上霞城に住む。義父制は翌年龍野町長。
1889年 長男操(露風)6月23日に生まれる。
1892年 次男勉 5月22日に生まれる。
1894年 企救男、東京専門学校(現在早稲田大学)に入学。
1895年 2月 不貞をはたらいた[5]夫三木節次郎と離婚。操と別れ、勉と鳥取へ帰る。自立を目指し東京大学病院付属看護養成所に入所。帰省中の碧川企救男が同行。
1896年 次男勉も三木家に引き取られる。キリスト教に入信。宣教師に英語を学ぶ。
1897年 看護婦養成所を卒業。東京大学内科の三浦謹之助の直属看護婦となり、ドイツ式のマッサージを学ぶ。
1897年 出張看護を依頼され、岩崎邸、古河邸、富貴楼に出入りする。
1899年 企救男、早稲田専門学校を卒業。北海道網走の集治監獄に勤務。
1901年 企救男「北海タイムス」に就職。
1902年 ドイツ留学生に推薦されるが、碧川企救夫と再婚し小樽市稲穂町に住む。碧川は反軍・反権力の立場でアイヌ問題、囚人虐待、足尾鉱毒などを論評す。
1903年 長男碧川道夫生まれる。
1904年 企救男「出征兵士を弔う」の旗をかかげ、街頭で非戦を訴える。
1905年 長女澄を出産。碧川本家の養女へ。
1906年 次女国枝生まれる。三木露風(三木操)は詩歌集「夏姫」を出版。
1907年 企救男、石川啄木と交流が始まる。
1908年 企救男、報知新聞主筆として上京。幸徳秋水、堺利彦、西川光次郎と旧交を温めるが要観察社会主義者となる。
1909年 三女芳子生まれる。露風は詩集「廃園」出版。
1910年 企救男「中央新聞」夕刊の社会部長へ。
1912年 四女清生まれる。
1913年 訪問介護で生活を支える。
1914年 企救男、「東京毎夕新聞」政治部長につき反軍記事を書き退職。
1915年 企救男、中央新聞に復職。
1918年 シベリア出兵で米価急謄。かたも「米よこせ運動」に参加。
1919年 企救男、ベルサイユ講和条約の取材と渡仏。