硯友社(けんゆうしゃ)は、明治期の文学結社。1885年、尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足。「我楽多文庫」を発刊し、川上眉山、巖谷小波らが参加し当時の文壇で大きな影響を与える一派となった。明治36年(1903年)10月の紅葉の死によって解体したが、近代文体の確立など、その意義は大きい。目次
1 歴史
2 硯友社の性格
3 硯友社の文学
4 硯友社の場所
5 硯友社の作家
6 関連項目
7 外部リンク
歴史が文学同好会「文友会」「凸々会」をつくった。これが発展し、永遠に友でいるという意味で硯友社と称した。同年5月、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』を創刊。初めは筆写本による回覧雑誌とし、8冊を刊行。ついで、活版非売本として、8冊を刊行。さらに公刊本を16冊と刊行し、ひきつづき『文庫』と改名し、11冊を刊行する。この間に大きな反響を呼び、川上眉山、巖谷小波、江見水蔭、挿絵の武内桂舟らが参加。
だが公刊本時代に美妙が社に無断で『都の花』で主に筆をとるようになったため、硯友社から離脱。一時打撃を受けたが、紅葉『二人比丘尼 色懺悔』等で吹き返し、さらに広津柳浪、泉鏡花、小栗風葉など、紅葉に弟子入りするものが増え、最盛期を迎えた。一方、美妙や小波は言文一致体の小説を載せるなど、近代文体の確立にも貢献。その後は、紅葉の死とともに解体した。 『硯友社々則』には「本社は広く本朝文学の発達を計るの存意に有之候得ば」として都々逸、狂句も拒まないとしており、政治的色彩を排し、娯楽小説をめざして(但し、建白書の草案起稿其外、政事向の文章は命に替えても御断申上候)、紅葉を中心に文壇の中心となっていった。 当初は擬古典主義により、江戸期の戯作風の強い趣味的なものであった。だが坪内逍遥による写実主義の影響を受け、心理描写主体のものへ変換していく。さらに、それは後に眉山、鏡花らによる観念小説、悲惨小説へとつながっていった。 東京の九段にあった。現在は、和洋九段女子中学校・高等学校が建ち、校内の100周年記念資料室に、硯友社に関する資料が保存してある。
硯友社の性格
改良主義への反発から、復古的な側面、古典回帰の方向性をとった(積極的復古主義)
功利主義への反発から、「文学は娯楽」を追求(通俗性)
純粋に文学をやろうという知識人の登場(文学価値の向上)
硯友社の文学
硯友社の場所
硯友社の作家
石橋思案
泉鏡花
泉斜汀
生田葵山
巖谷小波
江見水蔭
大橋乙羽
角田浩々歌客
上司小剣
黒田湖山
小栗風葉
尾崎紅葉
川上眉山
武内桂舟 (挿絵)
徳田秋声
広津柳浪
前田曙山
丸岡九華
八重津輝勝
柳川春葉
山岸荷葉
山田美妙
関連項目
文芸倶楽部 - 博文館の文芸雑誌。硯友社と近しい関係にあり、硯友社系作家の作品を数多く掲載した。
坪内逍遙
小杉天外
和洋九段女子中学校・高等学校
外部リンク
硯友社系の文学者に関わる資料 。明治・大正の文学者たちの書簡と草稿
和洋九段女子中学校・高等学校
『硯友社の沿革』:新字旧仮名 - 青空文庫(尾崎紅葉著)
典拠管理
CiNii: DA03446877
NDL: 00633447
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更新日時:2021年2月28日(日)00:18
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