硫黄島の星条旗
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ジョー・ローゼンタールAssociated Press所属)撮影『硫黄島の星条旗』「硫黄島の星条旗」を絵柄に用いた3セント郵便切手

硫黄島の星条旗(いおうじまのせいじょうき、Raising the Flag on Iwojima)は、第二次世界大戦中の1945年2月23日ジョー・ローゼンタールによって硫黄島(いおうとう[注 1])で撮影された報道写真である。

5人のアメリカ海兵隊員と1人のアメリカ海軍兵が硫黄島の戦いの最中、摺鉢山の頂上に星条旗を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つである。映画『父親たちの星条旗』が公開された2006年にいたるまで太平洋戦争のイメージとしてよく知られたものとなり、1945年度のピューリッツァー賞の写真部門を受賞した唯一の写真となった。写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。後に、この写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られた。
硫黄島の戦い詳細は「硫黄島の戦い」を参照

1945年2月19日、「飛び石戦略」に沿って日本本土を目指していたアメリカ軍が硫黄島に上陸した。もともと硫黄島は攻略計画に含まれていなかったが、沖縄攻略の前段階であったフィリピン攻略が予想以上に早く終わったことから、マリアナ諸島と日本本土の中間にある硫黄島の攻略が決まった。当時、日本本土爆撃はマリアナ諸島から行われていたが、硫黄島を制圧することによってB-29爆撃機の緊急着陸場所、ならびに護衛のP-51戦闘機の基地を確保することができた。

硫黄島は、日本軍栗林忠道陸軍大将率いる小笠原兵団によって要塞化されていた台形の火山島で、上陸した海兵隊に多くの損害を与えた。硫黄島は当時から東京都の一部であったことから、同島占領は連合軍による最初の日本本土占領となることを意味していた。その意味で日本にとっても硫黄島は絶対に失ってはならない島であった。

戦略的には島を見渡せる高さ166 mの摺鉢山がもっとも重要な拠点であった。日本軍は硫黄島防衛のため、半地下式の掩蔽壕とトーチカをつくり、それらを結ぶ地下トンネルを掘削した。このためアメリカ軍が手榴弾火炎放射器でトーチカ内の日本兵を倒しても、トンネルを通りまた新しい兵が入ってきて抵抗を続けるというパターンが繰り返された。アメリカ軍は最初に摺鉢山を目標に兵力を集中し、4日間の攻防のすえ2月23日にこれを制圧した(硫黄島の戦い#摺鉢山の戦い)。

摺鉢山制圧後も日本軍の抵抗は終わらず、最終的に31日後に組織的な抵抗がおわり、硫黄島の「制圧」が宣言された。
星条旗の掲揚2回目に掲揚された星条旗、「硫黄島の星条旗」の実物。国立海兵隊博物館収蔵

ローゼンタールの「硫黄島の星条旗」は摺鉢山制圧後、2度目に行われた星条旗掲揚の様子を写したものである。2月23日早朝、最初の星条旗掲揚が行われた。第5海兵師団第28海兵連隊第2大隊E中隊長デイヴ・サヴァランス(Dave E. Severance)大尉はハロルド・シュリアー(Harold G. Schrier)中尉に摺鉢山の制圧を味方に知らせるため、頂上に星条旗を立てるよう命じていたのだ。頂上付近が制圧された後で掲げられた最初の星条旗は131×71cmのもので、その模様をロイス・ロウェリー(Louis Lowery)軍曹が撮影している。しかし、この旗は小さかったので海岸付近からは見ることができなかった。

一方で、マイク・ストランク(Michael Strank)、ハーロン・ブロック(Harlon Block)、アイラ・ヘイズ(Ira Hayes)、 フランクリン・スースリー(Franklin Sousley)たちは23日の午前中、摺鉢山頂上へ電話線をひく任務を遂行していた。チャンドラー・ジョンソン大佐(Chandler Johnson)からサヴァランス司令官へその旨が伝えられ、サヴァランスはSCR300電池の予備をもたせてレイニー・ギャグノン(Rene Gagnon)を急派した。


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