砲手
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この項目では、兵器について説明しています。大相撲の第18代横綱大砲(おおづつ)については「大砲万右エ門」を、福岡県久留米市に本社を置く企業については「大砲 (企業)」をご覧ください。

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17世紀カノン砲

大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器武器)の総称。火砲(かほう)、砲(ほう)とも称す。目次

1 概要

2 歴史

2.1 前史

2.2 中世

2.3 近世

2.4 近代

2.5 第一次世界大戦?第二次世界大戦

2.6 ベトナム戦争

2.7 冷戦以後

2.8 日本での歴史

2.9 中国での歴史


3 大砲の分類

3.1 用途等による分類

3.2 射程と弾道による分類

3.3 構造による分類


4 砲兵

5 砲弾

6 基本用語集

7 逸話

8 比喩

9 脚注

9.1 注釈

9.2 出典


10 参考資料

11 関連項目

12 外部リンク

概要

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これに分類される火器重火器であり、よりも口径が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズはや時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなく門である。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。

大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。

なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大銃製造方」といい、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。

銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が自走砲戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。
歴史

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前史「火薬」も参照

カタパルトトレビュシェットバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2m近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。
中世

中国では1259年南宋寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が最も早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジア西アジアでもティムール軍がイランイラク地域の征服、オスマン帝国バヤズィト1世ジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。 西洋最古の大砲の記録図, De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum, Walter de Milemete, 1326 16世紀描かれている大砲

西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀 (1326年)[1]イギリススコラ学者en:Walter de Milemeteの手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に一般的に作られるようになった[2]

高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。

大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、攻城戦海戦において構造物破壊に威力を発揮した[3] 百目玉火矢銃と火縄銃百目玉抱え大筒


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