とべちょう
砥部町
砥部焼
砥部町旗砥部町章
国 日本
地方四国地方
中国・四国地方
都道府県愛媛県
郡伊予郡
市町村コード38402-0
法人番号6000020384020
面積101.59km2
総人口20,268人 [編集]
(推計人口、2021年10月1日)
人口密度200人/km2
隣接自治体松山市、伊予市、伊予郡松前町、喜多郡内子町、上浮穴郡久万高原町
町の木クヌギ
町の花梅
シンボルキャラクターとべまる、
砥部町役場
町長[編集]佐川秀紀
所在地〒791-2195
愛媛県伊予郡砥部町宮内1392番地
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度44分57.1秒 東経132度47分31.9秒 / 北緯33.749194度 東経132.792194度 / 33.749194; 132.792194座標: 北緯33度44分57.1秒 東経132度47分31.9秒 / 北緯33.749194度 東経132.792194度 / 33.749194; 132.792194
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砥部町(とべちょう)は、愛媛県の中予地方に位置する町である。
200年以上の歴史がある伝統工芸品「砥部焼」で有名。松山と高知とを結ぶ国道33号が縦貫する交通の便と、変化に富んだ緑豊かな自然により、松山市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいる。「住んでも 訪ねても いきいき砥部」をキャッチフレーズとしていたが、新町になってから公募による「清流とほたる 砥部焼とみかんの町」をキャッチフレーズとしている。全国的に砥部と言えば「砥部焼の町」と知名度が高い。アートの里プラン21やホップ・ステップとべと言った町総合計画でまちづくりを進めている。目次
1 地理
2 歴史
3 行政
3.1 町長
3.2 平成の市町村合併
3.3 機関
4 経済
4.1 本社を置く主要企業
4.2 工場・事業所を置く主要企業
4.3 支店・営業所を置く主要企業
5 社会
6 地域
6.1 教育
7 交通
7.1 鉄道
7.2 バス
7.2.1 現有路線
7.3 道路
7.3.1 高速道路
7.3.2 一般国道
7.3.3 主要地方道
7.3.4 一般県道
7.3.5 道の駅
8 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
9 出身有名人
10 その他
11 脚注
12 外部リンク
地理
位置
愛媛県のほぼ中央、松山市の南に重信川をはさんで連接している。松山平野の南端に位置する。
地名の由来
古来良質の砥石「伊予砥」を産し、町内の一つ地区を砥山と称していたが、周辺の地域一帯を含めて砥部と呼ぶこととなった。
地形
南部は山が多く、北は松山平野の南端の一角を占めている。南北に流れる砥部川沿いに国道33号が走り、集落が開けている。砥部地域は全体がなだらかな丘陵地にある。松山市との北東の境の丘陵地には、とべ動物園、えひめこどもの城、県立総合運動公園などのレクリエーション施設が集中している。広田地域は、上尾峠を越えた南側になる。
山 : 障子山(伊予市との境)、行道山(同)、権現山(広田)
河川 : 重信川、砥部川(重信川の支流の一つ)
気候
温暖であるが、松山に比べると1 - 2度低い。
人口
砥部町と全国の年齢別人口分布(2005年)砥部町の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 砥部町
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
砥部町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より
※旧広田村時代の同地域の歴史については広田村の記事を参照のこと。 古代 伊予砥は当町外山産の砥石をさすものと考えられる。 中世 近世 近代 新町後
歴史
6世紀初め頃 原町地域に点在する群集古墳の代表的なものに大下田古墳があり、この頃から政治・経済・文化が進んでいたことがうかがえる。
747年(天平19年) 法隆寺文書に砥部荘の名が見られる。
760年(天平宝字4年) 正倉院文書に伊予砥3顆が課せられたとある。
延喜式に伊予砥5顆が納められたとある。
河野氏の支配下に属したが、後期には長宗我部氏の進攻を受けた。
江戸時代 初期は加藤嘉明の松山藩に属した。
1635年(寛永12年)8月 松山藩と大洲藩との替地により大洲藩の所領となる。
砥部焼が振興される。
新谷藩の成立により大南・岩谷口・大平・下麻生が新谷藩の所領となった。
1889年(明治22年) 町村制施行にともない下浮穴郡砥部村、原町村、広田村が成立。
砥部村 - 外山村、北川毛村、五本松村、大南村、岩谷口村、大平村、川登村、万年村が合併
原町村 - 麻生村、宮内村、千足村、河井村、七折村、大角蔵村が合併
広田村 - 多居谷村、猿谷村、総津村、中野川村、高市村、玉谷村、満穂村、栗田村が合併(旧栗田村地区は1929年(昭和4年)、中山町へ編入)
1897年(明治30年) 3村とも下浮穴郡より伊予郡に郡域変更。
1928年(昭和3年) 砥部村が町制をしき砥部町となる。
1955年(昭和30年)3月31日 砥部町と原町村が合併し砥部町となる。
以上、砥部町(旧)「砥部町のすがた」ほかによる
2005年(平成17年)1月1日 (旧)砥部町、広田村が合併し、新しい砥部町となった。
行政
本庁 砥部町庁舎(宮内)- 旧砥部町庁舎
旧町時代に、原町連絡所(原町)、大南連絡所(大南、伝統産業会館内)は、広田村と合併したのち、廃止された。原町連絡所は、旧国道33号線「原町支所前交差点」として交差点として残っている。
支所 広田支所 (総津)- 旧広田村庁舎 老朽化のため、庁舎新築。2010年(平成22年)4月から広田交流センター内に設置