砂防学
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砂防(さぼう、英語:SABO)とは、文字通り『砂(すな)』を『防(ふせ)ぐ』ということであり、大地震火山 噴火豪雨台風等による自然現象や人為的行為がきっかけで荒廃した山地を緑に回復し、流出する土砂は、砂防堰堤砂防ダム)や渓流保全工、山腹工等様々な対策工で、土砂災害から人々の暮らしと国土を守り、荒廃した自然を穏やかな自然に戻すことである[1][2]
砂防事業

土砂災害を防止するための様々な対策(調査、計画、工種・工法、施工技術等)の総称を「砂防事業」という。

砂防事業は、砂防法を根拠とし、治水上砂防のため、土砂の生産を制御し、流送土砂を扞止調節するに必要な事業であり、荒廃山地には山腹工、渓流河川には砂防堰堤 、その下流には渓流保全工や遊砂地などを施工する。森林法を根拠とする治山事業は、水源涵養や土砂流出防止のため森林の造成または維持を行う[3]
言葉の由来

「砂防(さぼう)」という言葉の起源は、一般的に明治政府が出した1871年(明治4年)民部省達第2号による条文の「土砂ノ溢漏ヲ防グ可キ事」の中の土砂溢漏防止からの二文字だとされている。江戸時代に使われていた土砂流出防止の工事である土砂留に、工法や工事だけではなく、法体系や生活の営みの中で、土砂災害を防止するという概念の言葉として、砂防が明治の初め頃から使われ定着してきたと思われる[4]

また、英字「SABO」は、1951年(昭和26年)アメリカ大統領直属の最高技術委員委員長のウォルター・C・ローダーミルク(Walter C. Lowdermilk)が日本の砂防事業を視察した際、随行した参議院建設委員長赤木正雄と懇談し、砂防という言葉は、簡潔でしかも要点を得ている、よってこの「SABO」を世界の共通語にしたいと赤木に伝え、同年(昭和26年)開催されたブリュッセルの国際水文学会で「SABO Works」を世界の共通語にと提案し、それ以降「SABO」は世界で使われる共通の言葉となった[5][6][7]
歴史

我が国における山林保護の思想は7世紀から9世紀の文献にすでに認められるが、山林保護政策が行政の明確の意思として展開されるのは17世紀江戸時代からである[8]
江戸時代


1666年 (寛文6年)-「諸国山川掟 」を発布。幕府が土砂流出を防止するための規制を全国一斉に定めたお触れ。

1704年 (元禄17年)- 福山藩 「山方取締の令」、砂留工事開始。わが国で最も古い砂防堰堤である「福山藩の砂留[9]を築造し、現在堂々川・清水川水系(広島県福山市 )に22基が現存、うち8基が国の登録有形文化財[8][10]

明治時代


1873年 (明治6年)-「淀川水源防砂法」[11]八箇条が大蔵省から布達された。

1873年 (明治6年)- オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケが来朝。29年間日本で治水砂防事業の指導に当たり、砂防事業の重要性・緊急性について建言を行い、とくに治水はまず砂防からと説いた功績は大きい。

1889年 (明治22年)- 内務省技師田辺義三郎が、現存する貴重な石積み堰堤「オランダ堰堤 」、「鎧堰堤」[12](滋賀県大津市 )を設計。

1897年 (明治30年)- 洪水の原因となる土砂流出を抑制して治水の目的を達成しようとする「砂防法 」が制定。

1901年 (明治34年) -東京帝国大学農科大学(現東京大学)に「理水及び砂防工学専攻」が開設。

1905年 (明治38年)- オーストリアからアメリゴ・ホフマン[13]が来日。東京帝国大学での教鞭の傍ら愛知県瀬戸市の治山事業「ホフマン工事」を行った。[8][10]

大正時代


1912年 (大正元年)- 諸戸北郎[13]東京帝国大学の「森林理水及び砂防工学講座」の担当教官に日本人として初めて就任し、著書『理水及砂防工學 本論』[14]で、土石流 という用語を初めて使用。[15]

1914年 (大正3年)- 池田円男がフランスのサニエル渓谷の階段工を手本に、現存する牛伏川フランス式階段工重要文化財)(長野県松本市)を設計。

1915年 (大正4年)- 我が国初のセメント使用による芦安堰堤[16]登録有形文化財)を御勅使川(山梨県)に施工。


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