砂子_(川崎市)
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砂子
町丁
京急川崎駅
砂子砂子の位置
北緯35度31分44.4秒 東経139度42分1.7秒 / 北緯35.529000度 東経139.700472度 / 35.529000; 139.700472
日本
都道府県 神奈川県
市町村 川崎市
川崎区
設置1965年(昭和40年)
面積[1]
 ? 合計0.1107km2
人口(2017年(平成29年)12月31日現在)[2]
 ? 合計1,679人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号210-0006[3]
市外局番044 (川崎MA)[4]
ナンバープレート川崎

砂子(いさご)は、神奈川県川崎市川崎区町名2012年(平成24年)4月6日現在、住居表示は未実施[5]郵便番号は210-0006[3]2010年国勢調査時点での面積は11.07 ha[6]目次

1 地理

2 歴史

2.1 中世以前

2.2 江戸時代

2.3 明治以降

2.4 地名の由来

2.5 沿革


3 世帯数と人口

4 小・中学校の学区

5 交通

5.1 鉄道

5.2 路線バス

5.3 道路


6 施設

6.1 商店街

6.2 金融機関


7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考文献

9 外部リンク

地理

川崎宿の中心部に位置し、土地は多摩川の沖積低地である[7]京急川崎駅が位置するほか川崎駅東口にも近く、一帯は銀柳街や川崎銀座などの商店街を含む商業地となっているほか、川崎信用金庫の本店など金融機関も多く立地している[8]

砂子は北端で本町と、東端で宮本町・東田町と、南端では神奈川県道101号扇町川崎停車場線を挟んで小川町と、西端では銀柳街や京急本線を境界として駅前本町と接する。これらの町域はすべて川崎区に属しており、砂子は市境・区境と接していない。
歴史

当地は江戸時代の川崎宿を構成した4町の1つであったが、二ヶ領用水の通水後は周辺部が耕地化していった[7]1872年明治5年)に新橋 - 横浜間の鉄道が開通したことにより川崎宿はその繁栄を失った[9]が、川崎駅が設置され、さらに後には京急川崎駅も当地に置かれたことにより、当地は駅前の商業地として発展していった[10]
中世以前

源頼朝の時代に創建され、佐々木泰綱が寄進した鐘の銘にも「武州河崎庄内勝福寺」と残る勝福寺は、その後衰微していたが、戦国時代に後北条氏の家臣であった間宮信盛により中興され、そして信盛の死後、その戒名から宗三寺と呼ばれるようになったとされる[11]
江戸時代「川崎宿」も参照

1601年慶長6年)に東海道が制定された当初、川崎宿は宿場となっていなかったが、1623年元和9年)に宿駅となり、その4年後には砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町による川崎宿が確立した[12]。当地には本陣も所在していたが、周辺は農地であり、石は、正保期の「武蔵田園簿」で4158斗あまり(別に見取場もあり)、「元禄郷帳」では415石7斗あまり[7]、「天保郷帳」では436石7斗あまりとなっていた[9]。天保期の「宿方明細帳」によれば、家は147軒あり、農間に茶屋旅籠などの宿場関連の仕事に従事していたと残っている[9]

宿場では伝馬など負担が重いうえ、火災洪水[7]地震[13]飢饉[9]などの災害にも襲われたが、宿駅維持のために幕府は助郷の制度化[7]六郷の渡しの権益を川崎宿に与える[13]などの策を取っていった。
明治以降

明治維新以降、川崎宿の4町はまとめて「川崎駅」[注 1]と呼ばれるようになり[9]町村制施行後は川崎駅を中心として川崎町が発足し、のちに新設合併で川崎市となった。

明治以降、飛脚伝馬といった宿駅としての制度は廃止され、さらに鉄道開通により宿駅としての機能をも失うこととなった[13]

その後、川崎が工業地として発展するにつれ、当地は駅前の商業地へと変貌していくこととなった[10]。また、橘樹郡郡役所[10]や、市制施行後の川崎市役所[8](町域変更のため現宮本町)、川崎商工会議所[10](現駅前本町)などの施設も設置されていった。そして、大正時代には耕地整理が行われた[9]ほか、戦時中には臨港地区へ向かう道路も整備された[8]

第二次大戦では空襲で大きな被害を受けたが、その後は商業地として再建され、小美屋岡田屋(どちらも現在の駅前本町、小美屋は閉店)などの百貨店も開店した。そして、戦災復興土地区画整理事業により善養寺が緑ヶ丘霊園に移転するなど基盤整備が行われたほか、駅前本町などが分立し、砂子は現在の町域となった[8]

なお、作詞家・詩人の佐藤惣之助は当地にあった本陣の家に生まれ、当地で「詩の家」社を主宰し、幅広い作家の交流・同人活動が行われていた[11]
地名の由来

砂地であったことからの地名と考えられている[7]。なお、787年延暦6年)に海岸で拾った薬師像を当地に祀ったことに端を発するという伝承がある[14]。また、太田道灌が当地で「かもめいる いさごの里にきてみれば はるかにかよう おきつ浦風」と詠んだことが『平安紀行』に残っている[7]が、この『平安紀行』そのものが後世の作であるとする説もある[11]
沿革

1263年弘長3年) - 「武州河崎庄内勝福寺」の鐘銘が残る。

1480年文明12年) - 太田道灌が上洛。当地で歌を詠んだと伝わる[10]

天正年間 - 宗三寺が中興される[7]

1590年(天正18年) - 徳川家康が江戸入府。当地は天領となる[12]

1623年元和9年) - 川崎宿が東海道の宿場となる[12]

1627年寛永4年) - 砂子・久根崎に加え、新宿・小土呂も川崎宿の一部となる[12]

1694年元禄7年) - 助郷が制度化される[7]

1742年寛保2年) - 台風により多摩川が洪水。被害を受ける[7]

1761年宝暦11年) - 川崎宿で大火[7]

1836年天保7年) - 天保の大飢饉。川崎宿では過半数が飢餓となる[9]

1855年安政2年) - 安政の大地震。川崎宿で全壊18軒、半壊38軒[13]

1866年慶応2年) - 打ちこわしが勃発[10]

1868年明治元年) - 明治維新。当地は神奈川県所属となる。

1869年(明治2年) - 川崎宿4町が「川崎駅」[注 1]と総称されるようになる[9]

1871年(明治4年) - 伝馬飛脚が廃止[13]


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