砂井総管府(させいそうかんふ)は、中国にかつて存在した府。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の内モンゴル自治区ウランチャブ市一帯に設置された。
浄州路・徳寧路とともにオングト部族の領域下にあった。 『元史』巻58志10地理志1は砂井総管府について具体的な記録を残しておらず、砂井総管府の設置年代・位置などについては不明な点が多い。清末民初の学者王国維は『黒韃事略
歴史
『元史』本紀の断片的な記述によると、1260年にクビライとアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発した際、沙井(砂井)にクビライ側の軍備が整えられたことが記録されている[3]。また、この時軍糧の運搬を担当した張庭珍は西京(大同)から沙井に向かっており[4]、沙井は大同の北方、オングト部族の根拠地たる陰山山脈一帯に位置していたと考えられる[5]。
1274年(至元11年)には沙井・浄州などの地から「白達達(オングト部人)」の徴兵が行われた[6]。また、1316年(延祐3年)には集寧路・浄州路・砂井総管府の官吏が増員されている[7]。
1331年(至順2年)には「趙王(オングト部族長の帯びる王号)の食邑たる沙井・浄州路・徳寧路で飢饉が起こった」との記録があり[8]、沙井は徳寧路・浄州路と同様にオングト部族の遊牧地であったと考えられている[9]。 砂井総管府には砂井県のみが設置されていた[10]。
管轄県
脚注^ 『金史』巻24志5地理志上,「大定十八年以天山県升、為豊州支郡、刺史兼権譏察。北至界八十里」
^ 和田1959,918頁
^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年]六月戊戌、詔燕京・西京・北京三路宣撫司運米十万石、輸開平府及撫州・沙井・浄州・魚児?、以備軍儲」
^ 『元史』巻167列伝54張庭珍伝,「張庭珍、字国宝、臨?全州人……世祖即位、自将北伐、以庭珍熟知西京入漠南路、遣立沙井諸駅、兼給糧運、俄授同僉土蕃経略使」
^ 箭内1930,652-653頁
^ 『元史』巻98志46兵志1,「[至元十一年五月]詔延安府・沙井・浄州等処種田白達達戸、選其可充軍者、簽起出征」
^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐三年十一月]乙巳、増集寧・沙井・浄州路同知・府判・提控・案牘各一員」
^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[至順二年三月]丙戌……趙王不魯納食邑沙・浄・徳寧等処蒙古部民万六千餘戸饑、命河東宣慰発近倉糧万石賑之」
^ 箭内1930,643-644頁
^ 『元史』巻58志10地理志1,「砂井総管府。領県一、砂井」
参考文献
箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
表
話
編
歴
元朝の行政区分
腹裏
大都路
上都路
興和路
保定路
河間路
永平路
徳寧路
浄州路
集寧路
応昌路
全寧路
寧昌路
泰寧路
真定路
順徳路
広平路
彰徳路
大名路
懐慶路
衛輝路
東平路
東昌路
済寧路
砂井総管府
曹州
濮州
高唐州
泰安州
徳州
恩州
冠州
山東東西道
益都路
済南路
般陽路
寧海州
河東山西道
大同路
冀寧路
晋寧路
嶺北行省
和寧路
称海宣慰司
益蘭州
謙謙州
河南江北道
?梁路
河南府路
襄陽路
?州路
黄州路
南陽府
汝寧府
帰徳府
淮西江北道
廬州路
安豊路
安慶路
江北淮東道
揚州路
淮安路
高郵府
山南江北道
中興路
峡州路
安陸府
徳安府
荊門州
江南湖北道
武昌路
岳州路
常徳路
?州路
辰州路
?州路
興国路
靖州路
漢陽府
帰州
嶺北湖南道
潭州路
衡州路
道州路
永州路
?州路
全州路
宝慶路
武岡路
桂陽路
茶陵州
耒陽州
常寧州
嶺南広西道
静江路
南寧路
梧州路
潯州路
柳州路