石龕寺
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石龕寺

仁王門
所在地兵庫県丹波市山南町岩屋2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度6分2.7秒 東経135度1分34.2秒 / 北緯35.100750度 東経135.026167度 / 35.100750; 135.026167座標: 北緯35度6分2.7秒 東経135度1分34.2秒 / 北緯35.100750度 東経135.026167度 / 35.100750; 135.026167
山号岩屋山
宗派高野山真言宗
本尊毘沙門天
創建年伝・用明天皇2年(587年
開基伝・聖徳太子
正式名岩屋山石龕寺
別称岩屋寺
札所等氷上郡西国霊場第13番
丹波古刹15ヶ寺霊場第5番
文化財木造金剛力士立像2躯(重要文化財
法人番号2140005008155
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石龕寺(せきがんじ)は、兵庫県丹波市山南町岩屋にある高野山真言宗寺院山号は岩屋山。本尊は毘沙門天。岩屋寺(いわやでら)とも称される。高源寺円通寺とともに「丹波紅葉三山」の1つとして知られる。もみじの寺、足利氏の寺、仁王像の寺としても知られる。竹林山常勝寺(天台宗)、萬松山慧日寺臨済宗)とともに山南三山の一つでもある。目次

1 歴史

2 境内

2.1 奥の院


3 紅葉の時期の石龕寺

4 文化財

4.1 重要文化財

4.2 兵庫県指定有形文化財

4.3 丹波市指定有形文化財

4.4 丹波市指定有形民俗文化財


5 郷土記念物

6 前後の札所

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

10 外部リンク

歴史

寺伝によると、用明天皇2年(587年)に聖徳太子蘇我馬子と共に物部守屋と戦った際、太子は自ら毘沙門天像を刻んで兜の真甲に頂いた。そして、見事に合戦に勝利するや、毘沙門天像は空高く飛んでどこかに行ってしまった。太子はその毘沙門天を探すために諸国を回ると、この地の山の頂に瑞雲がたなびいているのを発見し山に入ると、探していた毘沙門天が石龕の中にあった。そこで太子はその石龕の横に一宇を設けたという。これが石龕寺の始まりであるとしている。

石龕寺の「龕」とは、仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味している。現在の本堂から山上約800mに奥の院があり、そこにある石窟が石龕寺の寺号の由来となっているものである。

仁王門の金剛力士像(仁王像)は、慶派の肥後別当定慶康運)によって仁治3年(1242年)に制作された仏像で重要文化財に指定されている[1]鎌倉時代から室町時代に隆盛を極める。 仁王門扁額

南北朝時代足利尊氏とその弟直義の争いである観応の擾乱にて尊氏が敗れ、一時、京都から播磨国に逃れる際に、嫡子義詮仁木頼章義長兄弟を添えて2000騎を当地に留めた。この時、石龕寺の僧が義詮に丹波栗を献上すると義詮はその一つに爪痕を付け、

「都をば 出て落ちの 芽もあらば 世に勝ち栗と ならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)

という歌を添え、栗を植え立ち去った。その後、首尾よくその通りとなったため、この近辺で採れる栗は「爪あと栗」または「ててうち栗」と呼ばれるようになったという。

南北朝時代から室町時代になると、石龕寺の修験者達の活動が知られるようになる[2]。彼等は熊野先達として近隣の村々から旦那を引き連れて紀伊国にある熊野本宮に向かったようで、「熊野本宮大社文書」の中に残された、南北朝・室町時代から戦国時代にかけての御師文書の中に、石龕寺先達として法忍坊(応安2年〈1369年〉)、実行坊(応安7年〈1374年〉)、宝泉坊(同年)、教善坊(嘉慶2年〈1388年〉)、乗泉坊(明徳4年〈1393年〉)、実行坊(同年)、尾崎坊(応永22年〈1415年〉)、福聚院(応永25年〈1418年〉)、西芳院(永享10年〈1438年〉)、井坊(康正3年〈1457年〉前後か)などの坊名・院名が散見される[3]


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