石黒荘
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砺波平野の航空写真。画像右上の平野最南端部に石黒荘は位置していた。

石黒荘(いしくろのしょう)とは、越中国砺波郡南西部(現在の富山県南砺市平野部一帯)に存在した荘園

もとは後三条天皇御願寺たる円宗寺の荘園であったが、円宗寺の衰微に伴って仁和寺菩提院・醍醐寺遍智院等に分割領有された。鎌倉時代から室町時代にかけて小矢部川水運を通じて放生津湊(現新湊港)と結びつき経済的に繁栄したが、戦国時代一向一揆による支配が進んだことによって実態を失った。

石黒荘の範囲は旧西礪波郡福光町一帯を中心として、旧東砺波郡城端町井口村福野町中西部にまで及び、現在の南砺市平野部の大部分に相当する。鎌倉時代以後は「十郷」から成るとされ、石黒上郷・中郷・下郷で1荘、山田郷・弘瀬郷で1荘、吉江郷・太海郷・院林郷・直海郷・大光寺郷で1荘の、「石黒三箇荘」とも呼ばれていた[1]
歴史
石黒荘の成立後三条天皇の肖像画

石黒荘は後三条天皇の御願寺として建立された円明寺(のち円宗寺と改称)の法会料所として、1078年(承暦2年)8月23日に白河天皇の意を受けた宣旨によって成立した[2][3][4]。後三条天皇は財政再建策として延久の荘園整理令を実施した人物であり、円宗寺はその政策推進の象徴として1070年(延久2年)に造営されていた[5][2][3]。後三条天皇の死により改革は挫折したが、死後に円宗寺で法華会(1072年/延久4年10月25日開始)・最勝会(1082年/永保2年2月19日開始)の両会を始めるための法会料所として石黒荘が設置されたと伝えられている[2][3]。もっとも、白河天皇は当初こそ後三条天皇の路線を受け継いでいたが、1086年(応徳3年)に天皇位を譲り院政を始めてからは独自路線を進んだ[2]。このため後三条天皇政策の象徴たる円宗寺も後盾を失って徐々に力を失ってしまい、このような経緯が後の石黒荘の経営不安定化・分割領有に繋がったと考えられている[2]

一方、石黒荘の成立した越中国砺波郡は古代より地方豪族である利波臣一族が強い影響力を有しており、特に奈良時代には般若荘(現砺波市東部)に大荘園を築いて東大寺造営時に寄進したことなどで知られている。石黒荘の成立とともに登場する石黒一族について、その出自については諸説あるが、利波臣一族の末裔であるとする説が有力である[6]。ただし、「越中石黒系図」には石黒権大夫光久なる人物が加賀の林貞光の娘を娶って「藤原氏と改めた(改藤原氏)」との記述があり、現存するほとんどの石黒氏系図では藤原利仁を始祖とする藤原氏を称している[7]。石黒荘設立に石黒一族がどう関わったかについては全く記録が残っていないが、これは後に石黒一族が木曽義仲や承久の乱の宮方についたことにより敗者として記録を失ったためで、石黒荘と石黒一族は本来は密接な関係を有していたと想定される[3]

円宗寺の衰退によって不安定な状態にあった石黒荘は、後白河院政の頃から分割統治化が進められ、まず山田郷・弘瀬郷が円宗寺に隣接する仁和寺菩提院の行遍に引き継がれた[8]。また院林郷・太海郷は仁和寺とも縁のある成賢により醍醐寺遍智院に受け継がれたようで、成賢が清浄光院再建にあてた「越州両庄上分」とはまさに院林・太海両郷を指すと考えられる[9]。仁和寺菩提院の行遍は後白河院の息女宣陽門院の庇護を受けており、醍醐寺遍智院の成賢も宣陽門院と密接な関係を有していたことから、これらの伝領は後白河院・宣陽門院の意を受けて行われたようである[10][2]。また、石黒荘の設立経緯から特に鎮護国家の祈祷を行う寺院が選ばれて石黒荘の領家職を委ねられたとも指摘されている[2]。恐らく石黒三郷(上郷・中郷・下郷)は石黒氏が直接管理したとみられ、それ以外の吉江郷・直海郷・大光寺郷については後白河院政期に記録がないが、石黒荘の分割領有の流れは鎌倉時代に入って以後も受け継がれることとなる[10][11]
源平合戦から承久の乱まで

鎌倉時代の半ば、1278年(弘安元年)に弘瀬郷の地頭職にかかる争論が和解を遂げ、和解のため作成された和与状(関東下知状)が現存している[12]。この史料には治承・寿永の内乱期から鎌倉時代半ばに至る弘瀬郷の領有状況が克明に記載されており、石黒荘のみならず越中国全体にとっても貴重な史料と位置付けられている[13]。以下、主に関東下知状の記録に基づいて石黒荘の変遷を記載する。
木曾義仲による支配義仲館の銅像。巴御前と並ぶ

12世紀後半に治承・寿永の内乱が勃発すると、木曽義仲信濃国で挙兵し、1181年(治承5年)の横田河原の戦いに勝利したことで北陸道まで勢力を拡大した[14][15]。『平家物語』には横田河原の勝利に呼応して「北陸道七ヶ国の兵共」ら北陸の武士団が木曽義仲勢への参加を表明したと記され、九条兼実の日記である『玉葉』にも治承5年7月末時点で越中・加賀・能登の国人が「東国と意を同じくし」 反平家の動きを見せていることが伝えられている[15]。これと連動するように、石黒荘弘瀬郷では藤原定直がまず1181年(治承5年)付けで留守所(=越中国衙)より、また1182年(治承6年)付けで木曽佐馬頭(=義仲)より、それぞれ地頭職の安堵を受けたと「関東下知状」に記されている[16]

この二つの安堵状は当時の北陸情勢を窺う上で極めて重要な史料であり、古くから研究者の注目を集めてきた[17]。まず、留守所(=越中国衙)からの安堵状については、同年11月に能登国の武士が国衙を占領した上で義仲の安堵を受けた記録があることから、越中においても義仲方の武士(石黒武士団)が国衙を掌握した上で安堵状を出させたものと古くは解釈されてきた[18][19]。しかし石黒党の国衙掌握は明確な史料的裏付けがなく、近年では久保尚文が当時の越中では待賢門院兄弟の閑院流諸家の領主が多くの荘園(般若野荘・高瀬荘)を有していたことを指摘し、越中国衙はそもそも荘園領主たる院近臣を通じて義仲に協力的であったため、主体的に安堵状を出したものと解釈している[20]。次に、治承6年付けの義仲からの安堵状は、先述した能登国の武士に対するものにつぐものであり、石黒武士団がかなり早い段階から義仲を主君として仰いでいたことが窺える[21]

『平家物語』には石黒党の首領である石黒光弘が倶利伽羅峠の戦いをはじめ北陸道における義仲の戦いに大きく貢献したことが記されるが、結局木曽義仲は源頼朝と対立した末に1198年(寿永2年)1月に殺され、義仲による北陸支配の具体的様相は後世に伝わらないまま終わりを迎えている[22]。なお、『源平盛衰記』等には和田合戦での敗北後の巴御前が石黒氏を頼って越中に下向したとの伝承もあるが、この伝承は石黒荘・石黒党が反北条・反鎌倉政権的傾向を有していたことを背景にしているのではないか、と考えられている[23][22]
比企氏による支配比企一族の墓


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