いしの せいぞう
石野 誠三
別名義石野 吉三郎(いしの きちさぶろう)
生年月日1905年
没年月日不詳年
出生地 大日本帝国
死没地 日本?
国籍 大日本帝国 → 日本
職業撮影技師、編集技師
ジャンル映画
活動期間1919年 - ?
活動内容1919年:日活関西撮影所入社
1921年:サワタ映画製作所
石野 誠三(いしの せいぞう、1905年(明治38年) - 没年不明[1])は、日本の撮影技師、編集技師である[1]。 満14歳を迎える1919年(大正8年)、撮影見習いとして日活関西撮影所に入社する[1]。1921年(大正10年)には日活を退社して、大阪の沢田順介
人物・来歴
移籍しての第1作は金森万象監督の『奇傑鬼鹿毛』で、同作以来、金森とのコンビを多く組んだ[1]。大森伊八、三木稔(のちの三木滋人)とともに撮影部の重要なカメラマンとなる[1]。1929年(昭和4年)に牧野の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)を所長に、名古屋に中部撮影所を建設・開所したときには、同所の現代劇部カメラマンに就任した[1]。在籍中に女優の水谷蘭子と結婚した[1]。
1931年(昭和6年)、マキノ・プロダクションが解散すると、大沢商会が製作した金森監督の『見よ! この先駆者を』という大阪の日本ゼネラル・モータースから受注した宣伝映画を撮影した[3]。その後は大沢が設立したJ.O.スタヂオに移籍し編集技師に転向するが[1]、翌1932年(昭和7年)、正映マキノキネマが設立されると同社に移籍した[1]。
1941年(昭和16年)、満洲映画協会(満映)に入社、石野吉三郎と改名し、作業管理所技術班長、編集係主任を歴任した[1]。同時期、『日満華競技大会』等のドキュメンタリー映画をマキノ出身のカメラマン大森伊八と組んで、監督している[4]。第二次世界大戦終戦まで満映に在籍した[1]。
戦後は、山口シネマに入社、日本中央競馬会の専属撮影技師としてパトロールフィルムの撮影を務めた[3]。マキノ・プロダクションのOB会「マキノ旧友会」の設立に寄与した[5]。それ以降の消息、死去時期などは不明である[1]。 特筆以外は編集技師として参加した。
フィルモグラフィ
『何者?
『奇傑鬼鹿毛』第三篇 : 監督金森万象、1925年