石野竜三
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いしの りゅうぞう
石野 竜三
プロフィール
本名石野 隆一
(いしの りゅういち)
[1]
愛称アニキ[2]、リアルアニキ[2]
性別男性
出身地 日本東京都[2][3]千葉県[4]
生年月日 (1962-12-12) 1962年12月12日(61歳)
血液型O型[2][5]
身長165 cm[2]
職業声優
事務所81プロデュース[3]
配偶者藤本ミツロウ
公式サイト ⇒石野竜三の極楽研究所
活動
活動期間1985年 -
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

石野 竜三(いしの りゅうぞう[注 1]、本名:石野 隆一(いしの りゅういち)[1]1962年12月12日[1][2]- )は、日本男性声優81プロデュース所属[3]東京都出身[2][3]千葉県育ち[4]
略歴

東京都生まれ[7]千葉県育ち[4]

幼稚園の年少時代の頃、母が病気で母方の祖母の出身地である愛知県に入院していた時期もある[8]。父は仕事の都合もあり、預けられる人物が近くにおらず、実家のほうに来ていた[8]。夏休みの前ぐらいまで祖母の家から幼稚園に通っていた[7][8]。その幼稚園の教諭は昼休みには、園児にピアノを教えていたこともあり、ピアノを弾いていたという[7][8]

夏休み明けに千葉県の幼稚園に転園し、人生初めてのオーディションである大太鼓を受けて、石野ともう1人が教諭に呼ばれていた[7][8]。「大太鼓を叩け」と言われたが、大きい音を出せず、小太鼓に回され、人生初めてのオーディションは挫折に終わったという[7][8]

中学1年生の時にクラスメイトが卒業式前日に「バンドを組みたい」と言っており、音楽が好きで、一緒にバンドを組むギター仲間を探しており、「何を血迷ったかギターを教えてくれるなら演っても良い」と答えており、13歳でギターの弾き語りを始める[9][10][11][12]

その後、「自分が本当に好きなのは歌う事だ」と気付いて、高校で声楽を学ぶなど当初は歌手志望であった[9][10]。その頃、合唱部に所属して、アカペラでイベント、コンクールに出場し、初めてエントリーしていたNHK合唱コンクールは県大会で3等賞に入賞[13]。先輩と組んでバンド活動も始めており、作曲を始める[13]。しかしヤマハポピュラーソングコンテストは開催終了し、同じ志を持っていた2歳年上の先輩は挫折し、合唱部では顧問の教師との意見が合わなくなり、退部し、歌手を挫折[10][13][14]研究者を目指すため理系の大学に進学する[9][10][15]。芸事がしたかったこともあり、子供の頃から漫画アニメ特撮モノ、海外の映画、ドラマが好きだったことから20歳で声優養成所に通い始めるが、舞台の魅力を知り舞台俳優になることを決意した[9][10][14]。当時は卒業公演のようなものがなかったため、同期らと劇団を結成[注 2]

同養成所卒業後は養成所の講師として来ていた藤城裕士に師事し、藤城が結成した演劇企画集団「ぐりま」に創立メンバーとして参加[12][14][16]

声優養成所、大学卒業後も芝居のために24歳くらいの時までアルバイトをしながら稽古場へと通っていた[15]。25歳でアルバイトとして大学病院の研究助手をしていた[17]

藤城の紹介で「ぐりま」の一同と共に当時藤城が所属していたぷろだくしょんバオバブ[1]の預かり所属になり、「オーディションに行け」と言われ、研修用ビデオのオーディションに受かり、顔出しで芸能界デビュー[6][16][17]。その後、声優としての活動を始める[10]

1994年顔面麻痺を患い、半年以上のリハビリを行い仕事復帰はできたものの、右半分は2021年現在も後遺症は残ってると自身がゲスト出演した番組で語っている[18]

1997年1998年シーズンの東京ガスフットボールクラブ(ジャパンフットボールリーグ、旧JFL)、1999年シーズンのFC東京(当時Jリーグ2部)のホームゲームでスタジアムDJを務めた。

夏海 玲衣というペンネーム小説を執筆したことがあり、著書は大創産業の100円均一ショップ「ザ・ダイソー」で販売されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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