石部誠中
[Wikipedia|▼Menu]

石部 誠中(いしべ せいちゅう、生年不詳 - 1879年明治12年)11月27日[1])は、幕末長州藩士、明治期の内政官僚岡山県権令。幼名・六郎[2]
目次

1 経歴

2 逸話

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

経歴

長州藩士の家に生まれた。藩では諸検使を勤め、政務座に至る。戊辰戦争脱隊騒動で功を立てた[2]

明治政府に出仕し、盛岡県大参事[3]飾磨県権参事[4]などを歴任。明治5年(1872年)、岡山県権参事に就任。参事を経て、1875年7月19日、権令に昇進[1][5]地租改正に当り地主・豪農層の意見を取り入れて減租計画を立て大蔵省と交渉するが、国の二度の拒否により岡山県下の地租改正反対闘争が盛んとなり、石部は病気を理由に辞職願を出し、同年10月7日に依願免官となった[1][2][5]。晩年は家居して学問を教授した[2]
逸話

慶応4年1月3日1868年1月27日)鳥羽・伏見の戦いが始まり、大垣藩兵が旧幕府方として参戦した。同月6日、同藩家老・小原鉄心は藩兵に自重するよう説くため、再度、同藩士・菱田重禧を遣わしたが、菱田は途中で長州藩士に捕われ伏見の陣営に連行された。菱田は長州藩伍長たちと議論を行うが、激昂した長州藩士たちが一緒に捕われていた会津藩士たちと共に菱田を斬首しようとした。6名が斬首され菱田の番となり辞世の漢詩を詠じ、それを読んだ隊長・石部が勤王の志を読取り菱田を救おうと動き斬首を免れた[6]
栄典

1874年(明治7年)2月18日 - 従六位[7]

脚注^ a b c 『岡山県歴史人物事典』91頁。
^ a b c d 『新編日本の歴代知事』802頁。
^ 「盛岡県大参事石部誠中辞職ノ件」
^ 「飾磨県権参事石部誠中出京ノ件」
^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』97頁。
^ 『小原鉄心と大垣維新史』3-6頁。
^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110

参考文献

歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。

『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。

徳田武『小原鉄心と大垣維新史』勉誠出版、2013年。

太政官「盛岡県大参事石部誠中辞職ノ件」明治4年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任A00001100

太政官「飾磨県権参事石部誠中出京ノ件」明治5年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任A00007100











岡山県参事・権令(第2代:1873-1875)
官選

大参事

伊木忠澄

参事・権令
新庄厚信

石部誠中

県令
高崎五六

千坂高雅

知事
千坂高雅

河野忠三

高崎親章

吉原三郎

檜垣直右

寺田祐之

谷口留五郎

大山綱昌

湯浅倉平

笠井信一


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef