石見銀山
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日本酒については「一宮酒造」をご覧ください。

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石見銀山遺跡と
その文化的景観
日本

清水谷精錬所跡
英名Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape
仏名Mine d'argent de Iwami Ginzan et son paysage culturel
面積529.17 ha(緩衝地域 3,134 ha)
登録区分文化遺産
文化区分遺跡(文化的景観
登録基準(2), (3), (5)
登録年2007年(第31回世界遺産委員会
備考2010年に軽微な変更。
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
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使用方法表示

石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる[1]。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれた。明治期以降は枯渇した銀に代わり、などが採鉱された。本項では石見銀山の概要と歴史、および2007年に登録された世界遺産としての石見銀山についても言及する。
概要

鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年昭和44年)に国によって史跡に指定。2007年平成19年)6月28日ニュージーランドクライストチャーチで開催された第31回世界遺産委員会ユネスコ世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている[2](後述の「登録までの経緯」の節参照)。2007年には日本の地質百選にも選定されている。

初期には仙ノ山(別名:銀峰山)山頂付近で銀鉱石の露頭の採掘が行われた。石見銀山では銀鉱石は福石(ふくいし)と呼ばれた。開発が進行するにつれ鉱脈に沿って地下深くに採掘が進んだが、江戸期の採掘で良質な銀鉱石は枯渇し後年には黄銅鉱黄鉄鉱方鉛鉱など鉱石を主体とする永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行した。
歴史
石見銀山の発見龍源寺間歩(入口)大久保間歩の内部

石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩北極星)の託宣によりを発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の露天掘りがなされていたと考えられている[3]。それも、「杣の山の深谷に数千貫湧き出したる白銀」を取ったというから、銀鉱が露出した天然銀であったようである(『丸山伝記』)[4]

その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の大商人、神屋寿禎(博多三傑・神屋宗湛の曽祖父。姓については神谷、名については寿貞・寿亭とも表記される)であるとされている[5]。海上から山が光るのを見た神屋は[注釈 1]、領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て、1527年大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した[6]

義興の死後、大内義隆九州経営に気を取られている間、1530年享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪ったが、3年後に再び大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。

1533年天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法[注釈 2]により精錬された[7]
銀山争奪

1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。

義隆の死後、毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、毛利元就尼子晴久との間で銀山争奪戦を繰り広げた。だが、1556年(弘治2年)の忍原崩れ、1559年(永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いでは尼子氏の勝利に終わり、晴久の存命中に元就は石見銀山を奪取しえなかった。

だが、1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[8]。同年12月には石見銀山を朝廷御料所として献呈する。

天正9年(1581年)7月5日付の石見銀山納所高注文(『毛利家文書』)によると、大森銀山の納所高は一年分合わせて3万3072貫、銀子に換算すると3652枚であった。毛利氏が流浪の足利義昭を奉じて織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この大森銀山に支えられた経済力があったのである[9]

その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[10]

1591年(天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため、林就長および柳沢元政を奉行に任命した。

1597年慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000枚(129、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13,000枚ずつが、それぞれ運上されている(『吉岡文書』)[11]
商業への影響


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