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武帝 石虎
後趙
第3代天王(皇帝)
王朝後趙
在位期間334年 - 349年
都城襄国→?
姓・諱石虎
字季龍
諡号武皇帝
廟号太祖
生年元康5年(295年)
没年太寧元年(349年)
父寇覓
石 虎(せき こ、295年 - 349年)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。字は季龍。祖父は?邪。父は寇覓。上党郡武郷県(現在の山西省楡社県の北西)出身の羯族であり、後趙の初代皇帝石勒の従子(甥)に当たる。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父の李虎の諱を避け、字を用いて石季龍と記される。石勒の没後、第2代皇帝石弘を廃して居摂趙天王を自称し、後に大趙天王を称した。晩年には皇帝に即位した。 早くに両親を失った為か、幼い頃に石勒の父である周曷朱
生涯
幼年
6・7歳になると、評判の良い人相見から「この子の貌は奇であり、また壮骨を有している。その貴は言葉では表す事が出来ぬ」と称された。
302年から303年にかけて并州で飢饉が発生すると、石勒に従って故郷を離れたが、永興年間(304年?306年)に石勒と離別してしまった。
311年10月、石虎は石勒の母である王氏と行動を共にしていたが、西晋の并州刺史劉?により捕らえられた。当時、石勒は漢(後の前趙)の将軍となって中原を荒らし回っており、この時は葛陂(汝陰郡?陽県にある)に駐屯していた。劉?は彼を懐柔する為、配下の張儒に命じて石虎と王氏を送り届けさせた。また書も合わせて送り、晋朝へ帰順して共に漢帝劉聡を討つよう要請した。石勒はこれを拒否したが、母と石虎を送ってくれたことに対しては感謝の意を示し、使者の張儒を厚くもてなして名馬珍宝を贈って見送った。
もともと石勒には姓と字は無く(そもそも羯族には姓・字という概念が無かった)、名を?と言った。石勒という姓・名と字である世龍は、305年に友人の汲桑により付けられたものである。その為、石虎という姓・名や字である季龍も、石勒に帰順した後に称したか名付けられたものと思われるが、それ以前に何と呼ばれていたのかは不明である。 石虎の性格は残忍であり、馬を走らせて猟を行うのを好み、その放蕩ぶりには限りが無かった。また、弾弓(矢の代わりに弾丸を射る弓)を好んで行い、幾度も人を撃った。その為、軍中では石虎の存在は大きな患いとなった。石勒は密かにこれを殺そうと考え、母の王氏に「この子は凶暴無頼でありますが、兵士にこれを殺させては評判を落とします。自ら死んでもらうのがよいでしょう」と告げた。すると王氏は「快牛でも犢子(子牛)の時は、多く車を壊してしまうものです。汝はこれを少し我慢なさい」と諫めたので、石勒は思いとどまった。 312年2月、石勒は葛陂に留まって建業攻略を目論んでいたが、飢餓と疫病により兵の大半を失い、戦どころではなくなってしまった。さらに、琅邪王司馬睿(後の元帝)は石勒を迎え撃つ為、江南の将兵を寿春へ集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。石虎は輜重が北へ退却するまでの時間稼ぎをするよう命じられ、騎兵2千を率いて敢えて寿春に進んだ。その途上、江南から到着した米や布を積んだ輸送船数10艘を発見すると、石虎の将兵は我先にとこれらに群がり、守備の備えをしなくなってしまった。そこに晋軍の伏兵が一斉に姿を現わしたため、石虎は巨霊口において敗北を喫し、500人を超える水死者を出してしまった。さらに退却時には西晋軍の指揮官紀瞻により、100里に渡って追撃を受けた。紀瞻軍が石勒の本隊にまで逼迫すると、石勒は陣を布いて来襲に備えたが、紀瞻が石勒の伏兵を警戒して寿春に戻ったので難を逃れた。石勒は無事退却に成功して北へ帰還すると、以後は襄国に拠点を置いた。 12月、石勒は対抗勢力の段部と講和を図る為、石虎を首領段疾陸眷の下に派遣した。石虎は彼と義兄弟の契りを結ぶと、盟約を交わしてから帰還した。 石虎は18歳になると、次第に節を曲げて他人に従うようになった。身長は7尺5寸となり、身のこなしは俊敏で、弓馬の術に長け、その勇力は当代一であった。その為、重臣や親族であっても敬意と畏怖の念を抱かぬ者はおらず、石勒はこれを深く称賛して征虜将軍に任じた。 313年4月、石虎は?城の三台(氷井台・銅雀台・金虎台)へ侵攻すると、これらを陥落させた。
石勒(漢将)の時代
将軍となる
石勒軍の勇将