石虎
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年1月)

武帝 石虎
後趙
第3代天王(皇帝)

王朝後趙
在位期間334年 - 349年
都城襄国→?
姓・諱石虎
字季龍
諡号武皇帝
廟号太祖
生年元康5年(295年
没年太寧元年(349年
父寇覓
母張氏[1]
后妃鄭皇后
杜皇后
劉皇后
陵墓顕原陵
年号建武 : 335年 - 348年
太寧 : 349年

石 虎(せき こ、295年 - 349年)は、五胡十六国時代後趙の第3代皇帝。は季龍。祖父は?邪。父は寇覓。上党郡武郷県(現在の山西省楡社県の北西)出身の羯族であり、後趙の初代皇帝石勒の従子(甥)に当たる。代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父の李虎諱を避けを用いて石季龍と記される。石勒の没後、第2代皇帝石弘を廃して居摂趙天王を自称し、後に大趙天王を称した。晩年には皇帝に即位した。
生涯
幼年

早くに両親を失った為か、幼い頃に石勒の父である周曷朱の養子となり、石勒からは弟のように扱われた。

6・7歳になると、評判の良い人相見から「この子の貌は奇であり、また壮骨を有している。その貴は言葉では表す事が出来ぬ」と称された。

302年から303年にかけて并州飢饉が発生すると、石勒に従って故郷を離れたが、永興年間(304年?306年)に石勒と離別してしまった。

311年10月、石虎は石勒の母である王氏と行動を共にしていたが、西晋并州刺史劉?により捕らえられた。当時、石勒は漢(後の前趙)の将軍となって中原を荒らし回っており、この時は葛陂(汝陰郡?陽県にある)に駐屯していた。劉?は彼を懐柔する為、配下の張儒に命じて石虎と王氏を送り届けさせた。また書も合わせて送り、晋朝へ帰順して共に漢帝劉聡を討つよう要請した。石勒はこれを拒否したが、母と石虎を送ってくれたことに対しては感謝の意を示し、使者の張儒を厚くもてなして名馬珍宝を贈って見送った。

もともと石勒には姓と字は無く(そもそも羯族には姓・字という概念が無かった)、名を?と言った。石勒という姓・名と字である世龍は、305年に友人の汲桑により付けられたものである。その為、石虎という姓・名や字である季龍も、石勒に帰順した後に称したか名付けられたものと思われるが、それ以前に何と呼ばれていたのかは不明である。
石勒(漢将)の時代
将軍となる

石虎の性格は残忍であり、馬を走らせて猟を行うのを好み、その放蕩ぶりには限りが無かった。また、弾弓(矢の代わりに弾丸を射る弓)を好んで行い、幾度も人を撃った。その為、軍中では石虎の存在は大きな患いとなった。石勒は密かにこれを殺そうと考え、母の王氏に「この子は凶暴無頼でありますが、兵士にこれを殺させては評判を落とします。自ら死んでもらうのがよいでしょう」と告げた。すると王氏は「快牛でも犢子(子牛)の時は、多く車を壊してしまうものです。汝はこれを少し我慢なさい」と諫めたので、石勒は思いとどまった。

312年2月、石勒は葛陂に留まって建業攻略を目論んでいたが、飢餓と疫病により兵の大半を失い、戦どころではなくなってしまった。さらに、琅邪王司馬睿(後の元帝)は石勒を迎え撃つ為、江南の将兵を寿春へ集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。石虎は輜重が北へ退却するまでの時間稼ぎをするよう命じられ、騎兵2千を率いて敢えて寿春に進んだ。その途上、江南から到着した米や布を積んだ輸送船数10艘を発見すると、石虎の将兵は我先にとこれらに群がり、守備の備えをしなくなってしまった。そこに晋軍の伏兵が一斉に姿を現わしたため、石虎は巨霊口において敗北を喫し、500人を超える水死者を出してしまった。さらに退却時には西晋軍の指揮官紀瞻により、100里に渡って追撃を受けた。紀瞻軍が石勒の本隊にまで逼迫すると、石勒は陣を布いて来襲に備えたが、紀瞻が石勒の伏兵を警戒して寿春に戻ったので難を逃れた。石勒は無事退却に成功して北へ帰還すると、以後は襄国に拠点を置いた。

12月、石勒は対抗勢力の段部と講和を図る為、石虎を首領段疾陸眷の下に派遣した。石虎は彼と義兄弟の契りを結ぶと、盟約を交わしてから帰還した。
石勒軍の勇将

石虎は18歳になると、次第に節を曲げて他人に従うようになった。身長は7尺5寸となり、身のこなしは俊敏で、弓馬の術に長け、その勇力は当代一であった。その為、重臣や親族であっても敬意と畏怖の念を抱かぬ者はおらず、石勒はこれを深く称賛して征虜将軍に任じた。

313年4月、石虎は?城の三台(氷井台・銅雀台・金虎台)へ侵攻すると、これらを陥落させた。


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