石神井村
[Wikipedia|▼Menu]

しゃくじいむら
石神井村
廃止日1932年10月1日
廃止理由編入合併
板橋町上板橋村志村赤塚村練馬町上練馬村、石神井村、中新井村大泉村東京市
現在の自治体東京都練馬区
廃止時点のデータ
日本
地方関東地方
都道府県東京府
北豊島郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積11.018357 km2.
総人口9,839人
国勢調査、1930年10月1日)
隣接自治体北多摩郡保谷村武蔵野町北豊島郡大泉村上練馬村東多摩郡野方村井荻村
石神井村役場
所在地東京府北豊島郡石神井村大字下石神井字小中原1052番地[1]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分10秒 東経139度36分00秒 / 北緯35.73625度 東経139.6度 / 35.73625; 139.6座標: 北緯35度44分10秒 東経139度36分00秒 / 北緯35.73625度 東経139.6度 / 35.73625; 139.6
特記事項面積は1111町1畝23歩をメートル換算
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

石神井村(しゃくじいむら)は東京府に存在したの一つである。古く石神井郷と呼ばれた地域にほぼ対応しており、江戸時代初期にも同名の村が存在していた。
地理

北豊島郡の南西端に位置しており、石神井川とその支流を南北に挟む緩やかな丘陵地である。石神井川の南岸は急斜面であるのに対し、北岸の傾斜は緩やかで川に沿って水田が存在していた。石神井川の水源として三宝寺池があり、またさらに西へ延びる支流の大川(現在はこちらが石神井川の本流)に「関の溜井」(現在の武蔵関公園)があった。南側の丘陵には千川上水が通っている。[2]

現在の東京都練馬区石神井町石神井台上石神井下石神井上石神井南町のいわゆる石神井地区、および周辺の三原台谷原高野台南田中関町北関町東関町南立野町に相当する。
大字・小字

旧村が大字となり、それぞれ以下の小字がある。[2]
谷原
東原、千川、西原、西中通、東中通、堀北、南耕地、北耕地、中原、本村、本脇、南郷、東郷、中郷
田中
原、下久保、本村、塚越、上薬師堂、下薬師堂、北薬師堂、下長光寺、上長光寺、東韮久保、上久保
下石神井
向三谷、上久保、原久保、伊保ヶ谷戸、坂下、小中原、和田前、池淵、和田、北原
上石神井
観音山、立野、小関、西村、沼邊、大門

甲地蔵裏、川北、溜淵、葛原、三つ塚、須崎、下竹、上竹
歴史

石神井川に沿うように各地から旧石器時代の遺物が発掘されており[3]有史以前から活動の盛んな地域であった。特に三宝寺池南岸には旧石器時代から室町時代にまでおよぶ遺跡群が集中しており、古くからの地域拠点であったと考えられる。しかし南北朝時代豊島氏の支配が及ぶまで、史料上の記録は乏しい。1349年貞和5年)に石神井郷は豊島氏の支配を受けるが、1368年応安元年武蔵平一揆の乱に敗れて関東管領上杉憲顕に所領を没収され、1395年応永2年)に還補されてこの頃から石神井城が築かれ豊島氏の本拠となったと考えられている。石神井城は1477年(文明9年)長尾景春の乱のさなかに太田道灌に攻められて落城、一帯は上杉氏後北条氏のもと太田氏の所領となり、その後は徳川氏の領有となる。文禄年間に谷原、田中、石神井、関の4村に分かれ、その後正保年間までに石神井村は上下2村に分かれ、さらに1784年天明4年)に竹下新田が開墾される。江戸時代を通じて幕府直轄領であり、明治維新後は品川県を経て東京府の所轄となる。

明治4年12月5日(1872年1月14日) - 東京府へ編入[4]。新宿口第22区(谷原・田中)、第18区(石神井・関)に属す[5]

1873年(明治6年)3月18日 - 朱引大小区改正により東京府第8大区7小区(谷原・田中)、8小区(石神井・関)にそれぞれ改称[6][7]

1878年(明治11年)11月2日 - 郡区町村編制法施行により東京府北豊島郡の所属となり、谷原村・田中村、下石神井村、上石神井村・竹下新田・関村の3つの戸長役場が定められた。

1889年(明治22年)5月1日 - 同年4月1日町村制施行に伴う合併(明治の大合併
上石神井村、下石神井村、谷原村、田中村(田中新田を含む)、関村の5村に加えて上土支田村を合併し東京府北豊島郡石神井村となる。各村は大字となる。

1891年(明治24年)6月15日 - 大字上土支田を分離。
石神井村大字上土支田は大泉村大字上土支田となる。

1932年(昭和7年)10月1日 - 板橋区成立。
東京市が隣接5郡(豊多摩郡北豊島郡荏原郡南足立郡南葛飾郡)82町村を編入。練馬地区には練馬派出所と石神井派出所が設置されるも、重要な書類は板橋区役所まで行かねばならなかった。後に、練馬派出所は練馬支所、石神井派出所は石神井出張所へと昇格。石神井村は7町に分立し、

石神井谷原町(旧:谷原村、現:谷原、高野台、富士見台)

石神井北田中町:(旧:田中新田、現:三原台)

石神井南田中町:(旧:田中村の田中新田を除く、現:南田中)

上石神井町:(旧:上石神井村、現:上石神井、石神井台)

下石神井町:(旧:下石神井村、現:下石神井、石神井町、上石神井南町)

石神井関町:(旧:関村、竹下新田、現:関町北、関町南、関町東)

石神井立野町:(旧:上石神井村立野の飛地、現:立野町)
と名付けられる。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制が施行され、旧石神井村は東京都板橋区に属す。

1947年(昭和22年)8月1日 - 練馬区独立。
板橋区から旧1町4村の領域(練馬町上練馬村中新井村・石神井村・大泉村)が練馬区として分離独立し、旧石神井村は東京都練馬区に属する事となる。それに伴い、各町名にある石神井の冠称を取り除く。

1980年(昭和55年) - 住居表示が実施され、現在に至る。

人口

1920年(大正9年)6,035人
1925年(大正14年)7,639人
1930年(昭和5年)9,839人

総務省統計局 / 国勢調査人口[8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef