元プロ野球選手の「石田芳雄」とは別人です。
石田芳夫 二十四世本因坊
名前石田芳夫
生年月日 (1948-08-15) 1948年8月15日(75歳)
出身地愛知県
師匠木谷實
名誉称号二十四世本因坊
概要
タイトル獲得合計24
七大タイトル
棋聖挑戦者 (1979)
名人1期(1974)
本因坊5期(1971-75)
王座2期(1974・78)
天元1期(1984)
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二十四世本因坊秀芳(にじゅうよんせいほんいんぼう しゅうほう 、1948年8月15日 - )本名:石田 芳夫(いしだ よしお)は、日本の囲碁棋士。愛知県西春日井郡新川町(現清須市)出身、木谷實九段門下、日本棋院所属、九段。1971年に22歳の当時史上最年少で本因坊となって秀芳と号し、本因坊5連覇により名誉称号を名乗る。正確な目算とヨセから「コンピューター」のニックネームがある。タイトル獲得数は24。 碁好きが嵩じて碁会所を開いていた父から小学2年の時に囲碁を教えられる。碁を覚えて1年でアマ5段まで到達した[1]。その年木谷實が名古屋に来た際に同行していた大竹英雄初段(当時)と六子で打って認められ、その1957年に木谷道場に入門する。師匠から「日吉丸」とあだ名される[2]。 3回目の挑戦の14歳でプロ試験合格[1]。1963年入段。初勝利は同年5月1日(大手合泉谷政憲二段に黒番中押し勝ち)。 若手時代は同じ木谷門の加藤正夫、武宮正樹とともに「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれた。1967年五段。1968年に首相杯争奪戦、69年に新鋭トーナメント戦優勝。1970年、六段で日本棋院選手権戦で大平修三を3-1で破り初タイトル獲得、同年七段。日本棋院選手権戦の挑戦者決定戦の記事において、その正確な形成判断から山部俊郎から「コンピュータ」とあだ名をつけられた[3]。 四段時1967年から71年にかけて大手合30連勝を記録。 1971年、初の本因坊リーグ入りで6勝1敗で挑戦者となり、林海峰本因坊を4-2で破って22歳10ヶ月で師匠・木谷が3度挑戦して果たせなかった宿願であった本因坊を獲得した[1]。これは本因坊獲得の最年少記録であるとともに、井山裕太が20歳4か月で名人位を獲得するまで、三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)獲得の最年少記録ともなった[4]。続いて2年連続で林のリターンマッチを受けたが防衛し、「林の天敵」とも言われた。本因坊は計5連覇。プロ十傑戦も1971、72年と2連覇。1972年8月に木谷道場から独立。名人戦では、1973年に林海峰名人に挑戦するが、3連勝後の4連敗という七番勝負史上初のスコアで敗れる。翌74年に再度名人挑戦して林を破り、坂田栄男、林に次いで選手権制史上3人目の名人本因坊となる。これにより九段に推挙され、入段以来11年で九段到達の記録となった。同年王座も獲得し三冠。 1975年には第14期名人戦で大竹英雄に3-4、1976年には第31期本因坊戦で武宮正樹に1-4と、木谷門の兄弟弟子にタイトルを奪われる。1976年新名人戦第一期で大竹名人にリターンマッチを挑むが1-4で敗北。1978年には本因坊戦で加藤剱正本因坊への挑戦者となるが、最終局は必勝の碁をポカで落とし3-4で敗れる。1979年には挑戦者決定戦で坂田栄男を破り棋聖戦挑戦者となるが、藤沢秀行棋聖に1-4で敗れる。 1976年以降の七大タイトル獲得数は2期に留まっており、大竹英雄、加藤正夫、武宮正樹、小林光一、趙治勲といった世代が近い同門のトップ棋士と比べると実績は大きく見劣りしている。1987年以後もNHK杯(3回)、早碁選手権戦、NEC杯、IBM早碁オープン戦などの早碁棋戦優勝はあるが、過去の活躍からすれば低迷と見られている[5]。 1990年代は竜星戦準優勝、世界囲碁選手権富士通杯に何度か出場。2000年から棋聖戦リーグに4期連続在籍し、2000年にはBリーグ4勝1敗で趙善津と同率1位になるが、順位差で挑戦者決定戦進出を逃した。2001年にはNHK杯テレビ囲碁トーナメントで11年ぶりの優勝を果たした。2011年、第1回エステー&フマキラー囲碁マスターズカップでは準決勝進出。 2014年8月31日、クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦で高尾紳路十段を破り優勝。2016年7月23日、第1回13路盤プロアマトーナメント戦でも、河野臨九段を下し優勝する。 国際棋戦では、1987年に日中テレビ囲碁選手権戦で聶衛平を下した。富士通杯で1991、99年にベスト8進出、2010年には1回戦で睦鎮碩を破りベスト16に進むが2回戦で孔傑に敗れる。 2008年、60歳をもって規定により二十四世本因坊秀芳を名乗る[6]。2016年紫綬褒章を受章[7]。 2005年から2008年まで日本棋院棋士会(東京)会長。またテレビ等での囲碁解説者として、2006年度(前期)、08年度(後期)のNHK囲碁講座では講師を務める。1983年からは代々木上原に「二十四世本因坊秀芳囲碁さろん」を開いている(2020年3月閉業)。門下に高橋秀夫七段。 2010年5月20日、三王裕孝
経歴
2019年1月17日、史上15人目となる通算1100勝を達成[9]。
2021年5月3日、第46期棋聖戦ファーストトーナメント予選決勝で武宮正樹を破り72歳にしてCリーグ入りを果たす。第46期のリーグ参加棋士では最年長[10]。
タイトル歴
首相杯争奪戦 1968年(対高木祥一)
新鋭トーナメント戦 1969年(対石井邦生)
日本棋院選手権戦 1970-71年(対大平修三、武宮正樹)
本因坊戦 1971-75年(対林海峰、林、林、武宮正樹、坂田栄男)
プロ十傑戦1位 1971、1972年(対梶原武雄、岩田達明)
囲碁日本シリーズ
国際棋戦
世界囲碁選手権富士通杯 ベスト8 1991、99年、出場 1990、92-94、96、98、2005、10年
日中囲碁交流
1966年 5-0-1
1983年 訪中団代表、4-3(×聶衛平、○曹大元、○邵震中、×程暁流、○馬暁春、×聶衛平、○呉淞笙)
日中テレビ囲碁選手権戦
1987年 ○聶衛平
日中スーパー囲碁
1989年 0-1 (×兪斌)
真露杯SBS世界囲碁最強戦
1994年 0-1(×徐奉洙)
国内棋戦
大手合第一部優勝 1968、69年
NHK杯テレビ囲碁トーナメント 準優勝 1971、85年
名人戦 挑戦者 1973、76年
本因坊戦 挑戦者 1978年
棋聖戦 挑戦者 1979年
王座戦 挑戦者 1980年
日本アジア航空杯争奪トーナメント 準優勝 1980年
早碁選手権戦 準優勝 1987、2002年
NECカップ囲碁トーナメント戦 準優勝 1989年
IBM早碁オープン戦 準優勝 1989年
竜星戦 準優勝 1992年
JT杯星座囲碁選手権戦準優勝 1999年
クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦 優勝 2014年
第1回13路盤プロアマトーナメント戦 優勝 2016年
リコー杯プロペア碁選手権戦 準優勝 1995年(中澤彩子とのペア)
27期十段戦(1989)挑戦者決定戦進出
16期碁聖戦(1991)挑戦者決定戦進出
名人戦リーグ9期 1971-73、1975-78、1987-88年(在位を除く)
本因坊戦リーグ6期 1971、1977-1980年(在位を除く)
棋聖戦リーグ4期 2000-2003年
タイトル獲得数ランキング
順位獲得回数棋士名
1位76期趙治勲名誉二冠*
2位75期二十六世本因坊文裕*
3位64期二十三世本因坊栄寿
4位60期小林光一名誉三冠*
5位48期大竹英雄名誉碁聖
6位47期加藤正夫名誉王座
7位41期張栩九段*
8位36期依田紀基九段*
9位35期林海峰名誉天元*
10位タイ24期二十四世本因坊秀芳
地に辛い棋風で、三々を多用し、両三々も得意戦法とした。ヨセが強いという評価に加えて、序盤構想も意欲的である。大斜定石の研究家としても知られ、中国流布石に対抗する白番の有力な手法としても活用した。
置碁の名手としても知られ、1972年から2年間『棋道』誌上でアマチュアとの2子から5子局の指導碁シリーズを打ち、23勝1敗という結果だった。1983年から『レッツ碁』誌上ではプロ対プロの置碁対局も行い、九子置かせて57目負けなどの記録が残っている。また、2013年3月21日の囲碁ソフト「crazy stone」との四子局に敗退し、「人間なら打ってくる場所に打たない冷静さと柔軟さを感じた。天才かも」と述べた。 「コンピューター石田」のニックネームなどと相まって、クールというイメージにより「新時代の勝負師」など現代的棋士像の代表のように言われ、本因坊を奪取した頃には趣味のギターの弾き語りをする姿が雑誌に掲載され、現代っ子の本因坊として話題を集めた。
人物